あの日、わたしは母から大事にされたのだと胸を張って言える。写真家・植本一子の母との思い出

あの日、わたしは母から大事にされたのだと胸を張って言える。写真家・植本一子の母との思い出
あの日、わたしは母から大事にされたのだと胸を張って言える。写真家・植本一子の母との思い出
CULTURE 2025.05.08
5月11日(日)は母の日。写真家の植本一子さんに、母との関係や思い出について綴っていただきました。
Profile
植本一子

うえもと・いちこ。写真家。1984年広島県生まれ。2003年にキヤノン写真新世紀で優秀賞を受賞。2013年、下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げる。著書に『働けECD わたしの育児混沌記』『かなわない』『家族最後の日』『降伏の記録』『フェルメール』『台風一過』『愛は時間がかかる』、写真集に『うれしい生活』がある。近年は自費出版にも力を入れている。

無駄に傷つくことを避ける賢さを、やっと手に入れた。

もうずいぶん実家には帰っていない。10年は経っていないけれど、何年帰っていないのか正確に数えるのが億劫なくらい帰っていない。つまり母ともそれだけの期間会っていないわけで、短くはないこの期間に、私が年齢を重ねたのと同じだけ、母も父も、そして今年103歳になる祖母も歳を重ねている。

最後に会った時の顔が思い出せないくらいなのに、今の顔なんて想像しようもない。想像しようとしても、なんだかとんでもなく恐ろしくなって、途中でやめてしまう。死んだ人を思い出すとき、亡くなる直前の顔や、あるいはもっと若い頃の強い印象が、ぼんやりと浮かんでくるものだ。母の存在も、生きているのにそれに近いものがある。最後に会った際に激しい喧嘩になったからか、その時の母の印象はよく思い出せない。今でも思い出すとぎゅっと苦しくなるので、それもあって何年会ってないか、なんてことを細かく計算したりしない。

自分が子どもを産んでから、母に感じていた違和感みたいなものが決定的になり、数年前の最後の激しい喧嘩が、二人の関係の着地点だった。一時は母と縁を切る方法も具体的に調べたりしていたくらいで、何もかもが嫌だった。今となっては母とも連絡をとり、実家でつくられたお米をちゃっかり送ってもらっているが、それでもまた会おうとはやっぱり思えない。

時間をかけて、お互いに距離をとることで、やっと適度なやりとりができるまでになった。こうやって一見うまくいっているように思えると、少しだけ欲が出てきて、こちらが歩み寄ることで、もしかしたらうまくいくこともあるんじゃないか、自分が欲していたものを今こそもらえるんじゃないか、なんて思ったりもする。けれどどう転ぶかわからない、そんな危うい橋を渡らない道をとるのも、自分で自分を守るためだ。母と会うにはあまりにもリスクが大きすぎる。自分も歳をとり、無駄に傷つくことを避ける賢さを、やっと手に入れた。

小学3年生のとき、母と2人で行った遊園地での思い出

そんな関係だが、昔からずっと悪かったわけではない。というか、母は今でもわれわれの仲が悪いとは思っていないだろう。わたしからみた母のことを表現するとき、いつも何といっていいのかわからず言葉に詰まる。悪い人ではないと思いたい。そして実際、悪い人ではない。ただ、わたしの中に澱のように溜まってきた感情を、今もうまく言語化することができない。母だからといって、家族だからといって、人間同士なのだから、合わないこともある、それだけのことかもしれない。

母との思い出には、もちろん良いものだってたくさんある。

小学校3年生の時期に、クラスで仲間外れの順番が回ってきたタイミングがあった。みんながひとりを無視するという、陰湿ないじめだ。女子の間で順繰りにターゲットが変わっていき、わたしの番が来るのはわかっていた。けれど実際にその立場になると、存在が無視されるということが、こんなにも苦しいことかと初めて知った。こころの一部が、今も壊されたままのような気がする。

それでも数日はなんとか頑張っていつも通り学校へ通っていた。時が経てば自然とターゲットが変わるか、それそのものが無くなるとわかっていたからだ。どれくらい耐えたのか覚えていないけれど、ある時、もう学校には行けないのだと全身が拒否していた。どうやっても体が動かないのだ。母に心配をかけたくなくて、どういうことがあって、何が自分の身に起きているのか、詳しくは言えない。泣きながら、行きたくない、とだけ伝えた。

仕事をしていた母は泣きじゃくるわたしを心配しつつも、学校に何とか行かせようと、自分はいつも通り仕事へ行く準備をしていた。ただの行き渋りだと思ったのだろう。それでも、これは異常事態だ、と急に察したのかもしれない。すぐにわたしが学校を休むことを許してくれ、さらに自分も仕事を休み、今日はふたりで一緒に過ごそう、と提案してくれたのだった。

泣いていたわたしはそんなことになると思わず驚いたけれど、同時にものすごく嬉しかった。そして、遊園地に行こう、と平日の日中、母の車に乗って家から1時間ほどの場所にある、海沿いの遊園地へ向かった。

確か雨が降っていたような気がする。景色の記憶は、どこかどんよりとグレーがかっている。ふたりともスピードのある乗り物や、派手な動きのものが苦手で、乗れるものは少なかった。それでも平日の空いた園内に母とふたり、無性に嬉しくて楽しくて、メリーゴーランドにコーヒーカップ、そして大きな観覧車に乗った記憶がある。小さなカプセルに母と向かい合って座り、ゆっくりと高いところまで登っていく。

やっぱり高所恐怖症のわたしには怖くって、それでもその瞬間は母とふたりきり、ものすごく幸せだったように思う。それから学校へ行ったのかどうかなんて覚えていないし、仲間外れがどうなったのかもすっかり忘れてしまった。確かに傷ついたけれど、その代わりに大きなものを手に入れたように思う。あの日、わたしは母から大事にされたのだと胸を張って言える。

そんな大切な記憶が、母との間にあったことを、つい最近まで忘れていた。キラキラと光る、自分の背中を押してくれるものなのに、なぜかそんなことにまで蓋をしてしまっていた。母と物理的に距離を取れるようになったことで、至近距離の記憶ではなく、遠くの記憶にも手が届くようになった。なんでも思い出せるうちに、こうして書き残しておきたいなと思う。

illustration_oyasmur edit_Kei Kawaura

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