ハナコラボSDGsレポート 医師・中村 哲さんの生き様を通じて、本当の平和を考える。劇場版『荒野に希望の灯をともす』の谷津賢二監督インタビュー
ハナコラボ パートナーの中から、SDGsについて知りたい、学びたいと意欲をもった4人が「ハナコラボSDGsレポーターズ」を発足!毎週さまざまなコンテンツをレポートします。第71回は、ライターとして活躍する五月女菜穂さんが、劇場版『荒野に希望の灯をともす』の谷津賢二監督に話を伺いました。
中村 哲さんを21年間撮り続けて…「この緑こそが平和の礎だ」
ーー21年間にわたって中村さんのことを撮影されてきた谷津さん。改めて中村さんを撮ろうと思われたきっかけを教えてください。
「きっかけは1998年の始め頃。会社の同僚に、中村医師の著書である『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』(石風社)を薦められたことです。私は高校、大学と山登りをしていたので、山が出てくるし、おもしろそうだなと思って何気なく読み始めたのですが、衝撃を受けましたね。
アジアの辺境で日本人ドクターが現地の人のために体を張って、いや、命を張って、医療活動をされている。それだけではなくて、非常に哲学的な方で、それこそ人間の命への考察とか、差別や病など世界中どこにでもあるような普遍的な問題と向き合っているということが文章から読み取れました。
私はカメラマンなので、カメラマンとしてのある種の本能として『撮影をしたい』と思いました。それで連絡を取ってみたことがきっかけです」。
ーー実際にお会いしていかがでしたか?どんな印象を持ちましたか?
「最初に連絡をとったときは、中村医師はまだ現地にいらしたんですね。ペシャワール会という中村医師を支えるNGOの方からも『本来あまり撮影を好む方ではないので、許可が出るかどうかわかりません』と言われていました。ただ、ほどなくして中村医師が帰国して、東京に寄る用事があるというので、そのときに会う約束を取りつぎます、と。東京駅の近くの喫茶店で待ち合わせをすることになりました。
お会いすると、自分が想像していた中村医師とは全く印象が違いました。硬質で本質を突くような文章を書かれる方だったし、戦地のアフガンの中に分入っていく雄雄しいドクターを想像していたのですが『中村です』と喫茶店にやってきた彼は、157センチぐらいの小柄な男性。小さな声で訥々と喋る姿を見たときはすごくギャップがありました」。
ーーその場で取材の許可を得たのですか?
「そうですね。問わず語りに、取材をしたい旨を伝えました。中村医師の巡回診療についていきたいとお願いしたら、なぜか分からないんですが『よかですよ』と。それが取材許可でしたね」。
ーーカメラマンとしてもなかなか過酷な現場だったと思いますが、それでもなぜ中村さんを撮り続けようと?
「巡回診療に付いていったときのことです。ヒンドゥークシュ山脈という巨大な山脈の中の、医療から見放されたような僻地へ、中村医師は薬と医療器具、食料、テントを馬に積んで診察をしに行くんですね。
診療場所まで3泊3日ぐらいかかる。僕もカメラマンですから、格好いいシーンを撮りたいなと思って、美しい山々を馬に乗って歩く中村医師を撮るわけです。でも、ちょっと言い方は失礼ですけど、ヨレヨレの作業服を着て、現地の帽子をかぶって、何か半分寝たような顔つきで、中年の日本人のおとっつあんが旅しているようにしか見えないんですよ。中村医師もシャイな方だし、私もいろいろ問いかけるのも失礼かなと思ってね、とにかく付いていきましたが。
それでたどりついたのは、標高3,500メートルぐらいの場所。村もなく、物置小屋が2軒あるだけ。中村医師は『待ちましょう』なんて言って、その場で大の字になってぐーぐー寝てしまって。その日は食事をして、お互いのテントで寝て終わりました」。
「すると翌朝、人の気配がするんですよ。外に出て見てみたら、山の端からどんどん老若男女が降りてくるんですね。『ドクターが診察に来る』と遊牧民が伝令役になって、近隣の村を回って。それを聞いた村人たちがみんな夜を徹して歩いてきたんです。100人ぐらいの人が集まったと思います。ふと、中村医師の顔を見たら一変してるんですよ、目には力が宿っていて、口がへの字に結ばれていて『医師・中村 哲』という顔つきになっているんです。
中村医師の診察は丁寧でした。現地の言葉も話せるので、フィジカルな痛みを取り除くだけではなくて、どんな生活環境なのかを聞き出して、いろいろなアドバイスをしているんです。生まれて初めてドクターに診てもらう人もいますから、すごく優しく接してね。
そんな無償の診察行為に対する、山の民からの返礼が一杯のお茶なんです。中村医師は『ああ、おいしい』とにっこり笑う。それを村人がまたニコニコして見ている。そのときにーカメラマンとしてはあるまじきことなんですが、カメラを置いて、この目でずっとこの光景を見ていたいと思ったんです。中村医師と現地の人との間には、目には見えないけどもすごい絆があるんだなと分かりました。
当時、私はカメラマンになって10年目ぐらいで、ある種のおごりがあったんだと思います。体力もあるし、ある程度の経験もあったから『何でも撮れる』と思っていた。でも、その光景を見て、彼ら彼女らの絆はカメラに映らないと思ったんですよ。
世の中には厳然としてカメラには映らないものがある。それでも何か残したい、何かに近づきたいと思って、撮る。そのときの経験があまりにも強烈で、それが21年間取材を続けた原動力だなと思いますね。中村医師の仕草や仕事から、カメラマンとしてあるべき姿勢を教えられた気がします」。
ーー谷津監督は21年間に25回アフガニスタンに行かれて、現地に450日ほど滞在されました。中村さんを撮り続けた映像は1,000時間分もあるそうですね。今回、劇場版として再編集される中での気づきや、意識されたことは?
「中村医師がアフガニスタンに用水路を通したことによって、まったくの荒野が森になって、人の気配がして、人里に戻るまでの様子も記録できているんですね。中村医師は常々『この緑こそが平和の礎だ』と仰っていました。
私が中村医師を最後に取材したのが2019年4〜5月だったのですが、そのときに緑の沃野が見渡せる丘に中村医師と一緒に登ったんです。その何年か前から緑は戻っていたのですが、そのときは音が違った。子どもの遊ぶ声や働く男たちの掛け声、小鳥のさえずり…命の気配みたいなものが感じられて『音、すごいですね』と私が言ったら、中村医師は『いいですよねぇ』と。その後中村医師が亡くなるなんて思ってもいなかったですが、中村医師が取り戻したかったのは、この景色だったんだなと。
実は2021年3月にDVDとして世に出ているのですが、今回劇場版を改めてつくったのは、より多くの人に、この景色を大画面で見てもらいたい、いい音響で感じてもらいたいと思ったからです。
『自分ファースト』『自国民ファースト』では生き残れない世界に、我々は放り込まれているような感覚があります。どうしたらいいんだろう。どう他者と関わったらいいのだろう。いろいろな不安に苛まれているいまだからこそ、中村医師の生き方を知ってほしいと思っています」。
ーーこれから『荒野に希望の灯をともす』は全国で公開されます。改めてどんな人にこの映画を見てほしいと思いますか?
「小学生から大学生まで、特に子どもたちに見てもらいたいと思います。
私も61歳なので、だんだん老齢に入ってきているのですが『いまどきの若い人は…』と言わないようにしたいと自戒しているんです。中村医師はご存命ならば今75歳になりますが、その年代の方には珍しく、ものすごく若者を信用していました。その理由を『若い酒は若い皮袋に盛れ』という聖書の言葉を引き合いに出して『若い人たちが活躍できないのではなくて、自分たち大人の世代が若者が活躍できるような社会を作ってあげられなかったから』と話していました。
私も含めていまの大人の世代にはろくな大人がいない。そう若者に思われているだろうなという気がするんですね。でも中村医師のような大人がいたことを知ってもらいたい。こんな人がいて、こんな活動をしていたのなら、自分たちも頑張ってもいいかな、と若い人が思ってくれたらと思っています」。
『荒野に希望の灯をともす』
■http://kouya.ndn-news.co.jp/
※上映スケジュールは公式ホームページをご確認ください。