「ママ友」という言葉への小さな抗い

「ママ友」という言葉への小さな抗い
自分の目で、世界を見たい Vol.19
「ママ友」という言葉への小さな抗い
LEARN 2026.06.01
この社会で“当たり前”とされていること。制度や価値観、ブーム、表現にいたるまで、それって本当は“当たり前”なんかじゃなくって、時代や場所、文化…少しでも何かが違えば、きっと存在しなかった。情報が溢れ、強い言葉が支持を集めやすい今だからこそ、少し立ち止まって、それって本当? 誰かの小さな声を押し潰してない? 自分の心の声を無視していない? そんな視点で、世界を見ていきたい。本連載では、作家・翻訳家の松田青子さんが、日常の出来事を掬い上げ、丁寧に分解していきます。第19回は、「ママ友」という呼び方と関係性について考えました。

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松田青子
松田青子
作家・翻訳家

まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。

親もいろいろ、みんな違う。

今年の春、子どもの人が小学二年生になった。七歳である。

「子どもの人」というのは、以前もこの連載でちょっと書いたような気がするけれど、出産後、育児エッセイ集『自分で名付ける』(集英社文庫)を書く際になんだか自分的にそう呼ぶほうがしっくりきたので、以来そうしている。

七年間はとにかく圧倒的なスピードでぐんぐんと進んでいった。その中で繰り返し思っていたのは、どの子も、どの親も、それぞれ違うなあ、というすごく当たり前のことだ。性格、住んでいる場所、仕事、経済状況などなどなど。でも、このすごくシンプルなことを、私含め、誰もがついつい忘れてしまいそうになる時があるように思う。

子育てがはじまってから、同じく子育て中の人が、家のローンのことや「お受験」の話を、私と共有できる前提で、いきなり具体的に話してくることが何度もあって、驚いた。双方が同様の状況で相談し合いたい、とか、親しい同士で近況を話している流れで、とかではなく、子育て中ならわかるはず、話していいはず、というまっすぐな勢いが感じられて、不思議な気持ちになった。

たとえば「お受験」の話は、私は「お受験」が必要な保育園や学校などの具体的な名前をまったく知らず、とりあえず家から近い公立に行こうぜ、としか考えていなかったし、今もそれに近い感受性しか持ち合わせていないので、同じ育児中でも、「お受験」の知識には雲泥の差があり、話し相手として私は本当に役に立たない。子どもの人が小学校に入る前に引越しも少し考えてみたのだが、「(比喩的な意味で)大きなお家に引っ越すのと、保育園のお友だちと同じ小学校なのとどっちがいい?」と一度聞いてみたところ、完全に後者であるとのことだったので、じゃあそれで、となった。

「ママ友」にもかなりグラデーションあり。

あと自分でもどうかと思うのだけど、私はいまだに「ママ友」という言葉に戸惑い続けている。

ある時カフェで仕事をしていたら、近くの席に座っていた日本人女性が外国人の友人に英語で「ママ友」を説明していた。

「子どものママ同士で友人になることなんだけど、ママ同士気が合わなくても、子どものために仲良くし続けないといけないこともあって大変」

話をしている彼女の実感もこもっていて、説明うまいなと感心しながら聞いてしまった。「ママ友」は実際そういう側面もあるだろうし、イメージにおいても、ドラマやフィクションの世界でもそこを誇張して描いたものが多く、面白かったりする。『ビッグ・リトル・ライズ』のように結束感が強い「ママ友」の物語もある。

ただ、私は、子育てをしていて親しくなった女性たちのことを「ママ友」と総称することに躊躇してしまうというか、「ママ友いますか?」と誰かに聞かれても、「ママ友はどうでしょうね・・・」などと言って、目を泳がせてしまう。

「ママ友」という言葉の「子どもありき」な感じが自分はしっくりこないのかな、別にママ同士でもなくても親しくなれたんじゃないかな、などと考えたりもしたのだが、「趣味友」の「趣味ありき」は別に気にならないのは、「趣味」の幅が広いことが前提だからだろうか。「ママ友」もかなりの幅があり、グラデーションがあると思うのだけど、世間的なイメージが強く、固定されやすいところが引っかかってしまうのかもしれない。

子どもの人が保育園の年中クラスだった時、とても仲の良い男の子がいたのだけど、その子が途中で関西に引っ越すことになり、保育園でそのことを聞いた子どもの人が残念がっていた。後日保育園にお迎えに行った時に、その子のママが声をかけてくれて、改めて引越しの話をしてくれた。

(以下、仲の良かった子はA、我が子どもの人はB)

「AもBくんと一番仲が良かったから残念がっていて、ちゃんとお伝えしたくて」

「うちもAくんが大好きで、すごく残念がっています。また遊べたらいいですね」

ここから引っ越すまでに子どもと大人それぞれが手紙やメモの交換などをして、大人はラインも交換。Aくんが引越した後はしばらく、

「今日は寝言でAくんの名前を呼んでいました」

「マンションの一階に降りるときに、はやくしないと下でBくんが待ってるよ、って言ってました」

などと、子どもたちが互いを思ってさみしがっている情報を共有したりしていた。

立派な「ママ友」だと思うのだけど、私は「別れを惜しむかわいい人たちを見守る我ら」と呼びたい気持ちだった。

「誰々パパ、ママ」ではなく。

小学一年生の最初の保護者会の時、教室で子どもたちが普段座っている小さなイスに座って担任の先生の話を聞いた後、数人ずつに分かれてしばらく自己紹介をする時間があった。三人のママで小さな机を付き合わせて自己紹介の後、一人がポンポンと質問してくれる人だったため、皆、はじめての子育てでおろおろしている四十代半ばの地方出身者であることがわかり、教室の片隅で異様に盛り上がり、秒でラインを交換。その後は、「自分の子どもがプリントを持って帰らなかったのは個人の忘れ物なのか、そもそもクラスで配られていなかったのか」や「色は各自自由とされている運動会のTシャツは何色にするのか」などなど困ったらすぐ相談できる関係を築いている。

これも「ママ友」だと思うのだが、言語化するなら、「五十音順で名字が近かったことで同じグループになり、互いを非常に必要としていた我々。名字が近くてラッキー」と呼びたい間柄である。

二十代女性である担任の先生はこの最初の保護者会で、保護者をグループに分ける前にこう言った。

「誰々ママ、パパと呼び合うことがどうしても多いかと思うのですが、せっかくなので、お互いご自分の名前で呼び合いましょう」

ここで私はこの先生のファンになった。

(先生と私の誕生日が一日違いであることにも勝手に運命を感じていた)

学校公開などで授業の様子を見ていても、生徒たちを性別にかかわらず必ず「さん」付けで呼び、生徒たちも授業中はお互いを「さん」を付けて呼んでいて、素敵だった。

年の終わりに先生と電話で話す機会があったので、「さん」付けがすごくいいなと思ったんですけど、学校全体の方針なのか、それとも先生の方針なんですかと聞いてみたところ、

「やはりみんなそれぞれ違うので、尊重したくてそうしています」

とのことで、この先生に一年生の担任をしてもらえたことが改めて本当にうれしかった。

私も「普通」や「固定観念」に対する小さな抗いを楽しんでいきたい。

text_Aoko Matsuda illustration_Hashimotochan

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