「バッグの中身」や購入品紹介を見るのが大好きな私が考える最近の不思議
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まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。
誰かの持ち物や買った物を見せてもらうのは、なぜこんなにも面白いのだろう。
十代の頃、私がオリーブやノンノなどの「女性誌」を読んでいて好きだったのは、雑誌に登場する人たちの私服、私物、購入品の紹介だった。
その後もいろんな雑誌の同様の特集を熟読して大人になり、そういったページだけをスクラップしたファイルをいまだ捨てられずに、時々眺めている。
当時はほぼ雑誌でしか出会うことのできない特集であり、ページをファイリングすることでしか愛を温めることができなかった。
そんな私の元に訪れたのがソーシャルメディアの台頭である。これにより、あらゆる人の私服、私物、購入品が見放題になったのだ。「バッグの中身」「ポーチの中身」といった雑誌で大好きだった特集を、メディアも個人もこぞって動画にしてくれるようになり、SNSのハッシュタグで投稿を延々とスクロールすることもできる。出産後は、「マザーバッグの中身」というハッシュタグをひたすら追って、役に立つ情報を得ようとした。

インフレの影響もあってか、ある頃から、「買い物」はエンターテイメントになった。
YouTubeでは、「総額○○万円!」と一度に使った代金や「爆買い」という言葉がサムネイルで踊り、「○月の購入品」「最近の購入品」と買ったものを紹介してくれる動画が人気だ。
私は私服、私物、購入品紹介といっても、その人の培ってきこだわりというか、その人のロジックで物を選んでいて、さらにそのロジックを説明してくれたり、コーディネートとして見せてくれたりする能力がある人が面白くて好きなので、それが見えない「爆買い」の場合は、あまり興味がない。ハイブランドの「爆買い」も同じく、紹介する人のロジックが見たいし、聞きたい。
その人にとって合理的であることを極めた「バッグの中身」もロジックが詰まっていて面白いし、反対に、例えば、British VogueのYouTubeチャンネルでアニャ・テイラー=ジョイが紹介していたような、ロジックを超越した、その人のチャームが溢れる「バッグの中身」も好きだ。彼女は他のセレブリティのようにハイブランドのアイテムを強調せず、パリの書店の薄い布バッグに、本二冊、ノート一冊、タロットカード、でかいブラシなどなどを詰め込んでおり、さらに最後に思いのほか大きい鉱物を5つも出してきて、片手でこのクリスタルを全部持つのが好きなの、と微笑んで語っている姿が、よくわからないけど最高だった。持ち物が多くて布バッグでは持ち堪えられないかもしれないからバッグを変えよう、などと思わず、好きな本屋のバッグを持っているところがいい。また、その後、街中を歩いているところをパパラッチされた写真などを偶然見ても、この布バッグを持っている確率が高く、本当に好きなんだな、と好感を持っている。

長年にわたり、私服、私物、購入品紹介を私なりに見続けていると、使われる言葉の変化に気づくことがある。
特にわかりやすいのは、「買いました」という表現の変化だ。
私が三十歳前後の頃、この「買いました」というシンプルな動詞が、雑誌やネットなどで「購入しました」と言い換えられるようになっていった。「買った」という直接的な行動が、「購入した」になることで、少し強さが和らぎ、洗練された印象になるからかなと、当時考えた。なぜ覚えているかというと、買う行為としては同じなので、変な感じがしたからだ。買った物を「購入品」と呼ぶのも、私はその頃は見たことがなかった。二十年以上前の雑誌を今ちょっと見てみたら、購入品紹介の特集は、「買って正解!」という言葉で表現されている。
ただそれから十年以上経って、SNSで誰でも買ったものを紹介できる土壌が整備され、「購入しました」はもう違和感を覚えないほど、使われる表現になった。
その流れの延長で、最近私が気になっているのは、「買わせていただきました」という表現である。「購入しました」はフォーマル感、プロ感が出るので便利ではあるが、主体が自分にあることは変わらない。
けれど、「買わせていただきました」はどうか。買うという行為の主体が自分であることは紛れもない事実なので、さすがにそこは「買いました」「購入しました」でいいのではないか。山奥の仙人が十年かけてつくったお椀がどうしても欲しくて、これは売り物ではないと断られても何度も頼み込み、譲り受けることに成功したとしたら、それは「買わせていただきました」だなと納得もいくのだけど、それぐらいの物語性をまとわない「買わせていただきました」は言葉としてちょっと浮くような気がする。どんなハイブランドのお店で買い物をしたとしても。
前にも書いたことだけど、「マナー」や「品格」を重視する人たちが、他者の言葉遣いや「マナー」に厳しく、ソーシャルメディアなどにもダメ出しするのが可視化されている中で、それ対策としての、「買わせていただきました」も背景にはあるだろう。
また、そういった世のムードの中で、丁寧な言葉を使う=「品格」がある、と本当に信じている人もいるような印象がある。だけど、言葉遣いが丁寧なだけでは「品格」は生まれない。むしろどんな時でも丁寧な言葉で統一することによって不自然になっている人よりも、カジュアルな言葉や丁寧な言葉をその場その場で自由に行き来できる人のほうが、その人の人間力や胆力が窺えるし、それこそ「品格」があると言えるのではないか。
とりあえず言いたいのは、せっかく自分が頑張って働いた自分のお金で自分の欲しいものを買ったのだから、「買わせていただきました」とへりくだらなくてもいいんじゃないかということである。

















