朝ドラ『ばけばけ』。最終回を迎えて初めて「何も起こらない物語」の意味に気付いた
“オワリニンゲン”と自覚した八雲
NHKの連続ドラマ小説『ばけばけ』が最終回を迎えた。最終回を見てまず思ったのは、これは本当に「何も起こらない物語だ」ということだった。
私はこの連載コラムの前々回で、『ばけばけ』を取り上げている。そのときは2025年の放送までのことを書いた。その時点で感じられる「何も起こらない物語」について書いていたのだが、今になってみれば、まだ私はこの本当の意味に気付いていなかったのではないかと反省したのだった。
そもそも、最終回で見た「何も起こらない物語」とはなんだったのか。
終盤のレフカダ・ヘブン=雨清水八雲というのは、傍から見れば順風満帆な人生だったかもしれないが、彼自身の中での晩年は、仕事の面で充実しているとは決して言えなかった。
その頃、雨清水家と松野家の家族は、妻・トキのたっての願いで、東京に暮らすようになっていた。八雲は東京大学で教鞭をとっていたが、実はその職も解雇されたばかりで、それをトキたちには言えずにいた。
彼自身は、次なるベストセラーを出そうと思っていたものの、身体も不調をきたしはじめていた。これまで二人三脚でやってきたアメリカに住む編集者のイライザも、なんとか彼との仕事を続けようとするが、編集部のほかのものたちは、ヘブンを「彼は終わった作家だ」といってとりあわない。
怪談を「幼稚」だと片づける視線
そんなとき、トキから「学のない私にも読めるものを書いてほしい」と言われて着手したのが「怪談」であったのだが、イライザから見れば、それは幼稚なものであった。本当はイライザというよりも、イライザのいる編集部の男性たちにとっては、かもしれないが。
このイライザの言う「幼稚」というものには、さまざまな意味が込められている。東洋の伝承など取るに足りないということがあるかもしれない。怪談という事実に基づかない、ふんわりとした話は取るに足りないのかもしれない。民間の言い伝えは取るに足りないのかもしれない。トキや子供にも読めるような平易な文章は取るに足りないのかもしれない。そこには、文学はかくあるべきものという基準があるのがわかる。
つまりは、大人の男性に対する女子供のものであったり、西洋に対する東洋であったり、ファクトに対するフィクションであったり、官に対する民間であったり、さまざまな対立軸において、弱いとみなされているものに寄り添ったことが、すなわち「幼稚」とみなされたのである。
イライザは、そんな本を最後に残して逝ったヘブンの元にはるばる海を越えてやってくる。そのエネルギーはいかほどのものだったのだろう。そして、ヘブン亡き今となってなお、トキにその愚かしさをまくしたてるのである。正直、ここまで西洋人の女性の意地悪な演技を再現するかと、イライザを演じたシャーロット・ケイト・フォックスさんの演技におののいてしまった。ここまでの憎悪に満ちたセリフ回しは演出か、もしくは俳優からか、どこから生まれたのだろうかと思うくらいだった。
1970年代生れの私からしたら、イライザという名前は、漫画『キャンディキャンディ』でヒロインのキャンディをいじめていた兄妹のニールとイライザを思い出す。我々世代にとって、意地悪な女性キャラクターの名前として、イライザという響きは記憶に沁みついているのだ。
とはいえ、イライザにも良いところはある。トキに、自分の物語を書けというのだ。そこには、どのような感情があったのかはわからない。ヘブンにこんな幼稚なものを書かせたのだから責任をとれというのもあったのかもしれないし、本来は、ヘブンが書くものに信頼があったから、一個人に戻れば、本当はヘブンの書くものを最後まで面白いと思っていたのかもしれない。でも、編集部の考えに沿って、それは幼稚だと思い込んでいたのかもしれない。そんなヘブンと過ごしたトキにだって物語はあるのだと思ったのかもしれない。それとも、編集者としての勘でなにかトキから面白いものが生まれると思ったのかもしれない。
気力をなくしたヘブンに書く気力を与えるのは、錦織とトキだったのだから、トキに書かせるのがイライザだというのも納得である。
女性が最後に「書く」物語は、たくさんある。思い出すのは『82年生まれ、キム・サムスン』や『チャンシルさんには福が多いね』『妖怪シェアハウス』『旅と日々』など、私も個人的に好きなものばかりだ。なぜかというと、物語の中だけではなく、実社会の女性たちも、なかなか思ったことを言える環境になく、それを書くことで自由や自分というものを手にすること自体がフェミニズムだからだ。
少し余談になるが、先日、映画『炎上』を監督した長久充さんと、東京を拠点とする劇団・贅沢貧乏の山田由梨さんのイベントが蟹ブックスであり、私も書店側のスタッフとして見させてもらったのだが、長久さんは何にかにつけて、「脚本を書け」と言っていたし、山田さんも何かにつけて「エッセイを書け」と言っていた。私も同意である。現在は、女性だけでなく男性も、なかなか思ったことを整理できる環境にないのかもしれないし、そうすることで自分の心を整えたり、自分でも気づかない内面に気付くことができたりするのではないか。

家父長制は男性に何を強制してきたのか?
ヘブン=八雲は、様々な人に励まされてきた。その多くは「書く」ことで何かを成し遂げるための励ましであることが多かった。錦織だったり、トキだったり、イライザだったりがその役割を果たした。彼らは、リテラシー・アシスタントと言われていた。
しかし、八雲はまた違った励ましを受けるのである。それは、彼が東京大学の職も失い、次に書くものを見つけられないときのことであった。彼のどこかおかしな様子に気付いたトキの父・司之介は、彼の後をついていき、東京大学に行かずに喫茶店に向かう彼の前に座り、無職になった八雲に対して、あなたは決して無価値ではないと伝えるのであった。
司之介は第一週から、時代について行けず、借金を作り、立ち尽くしてきた。牛乳配達の仕事はなんとか続けてきたが、そこに身を入れているわけでもなく、視聴者からも「司之介、しっかりしろ!」とか「働け!」と言われていた人物である。しかし、「働く」ということの意味が問われる今、働くことによって名を成し、成果をあげることだけが正解なのかという問いは存在している。特に、男性は家父長制というものに真面目に生きると、その圧を背負って生きることになることも多い。ヘブン=八雲が最後まで松野家のために、400円を稼がないと、と思っていたり、ベストセラーを出さないといけないと考えているのも、家父長制と無関係ではないのである。
しかし、司之介は最初から家父長制からは解き放たれた人であった。というか家父長制から見放されて、立ち尽くしてきた人だったのである(だって、松野の姓を継いだトキは八雲と結婚するときに、雨清水の人間になったし、そもそも司之介とフミとトキは血も繋がっていないのだ ※雨清水家が遠縁だということを考えても)。
司之介が家父長制においての家長として名を成し、成果を残すということから解き放たれているからこそ、何もなくなり、自分のことを「オワリニンゲン」と言う八雲のことを、司之介だけが「昔のわし」と言って励ますことができるし、八雲も初めて、帝大を首になったことを司之介にだけは告白できるのだ。八雲が自分のことを「オワリニンゲン」と言ったとき、司之介は、自分も「オワリニンゲン」であったことを認めるが、彼が明治の終わりからずっと、そんなことを認めて生きてきたことを考えると、なんと強い(自分軸で生きている図太い人という意味でも)人間だったのだろうかと思う。
ここで思い出すのが、韓国映画の中の家父長制である。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019年)で父親を演じたのはソン・ガンホだ。彼が演じたキム・ギテクもまた、家族全員が失業している一家の主である。彼らは娘がお金持ちのパク社長の豪邸に家庭教師としてもぐりこんだことから、一家がその家の使用人として次々と採用されるのだが、最後には殺人事件へと発展し、ギテクもパク社長を殺してしまう。しかし、その豪邸の地下に潜伏していたギテクは生きながらえていて、その後も、息子に届くよう、地下から光のモールス信号で手紙を送りながら、父という記号を背負って生きていくしかないという結末であった。この映画では、大きな岩が登場するのだが、それが家父長制の象徴ではないかと言われていた。
もうひとつ、今年日本でも公開となった『しあわせな選択』(原題:仕方がない)である。ここでの父親は、イ・ビョンホン演じるマンスである。彼は製紙会社で働いていたがリストラにあい、別の製紙会社で働くために、ライバルたちを次々と殺していこうとするのだが……というストーリーである。彼も妻や息子、娘たちと暮らしており、彼が失業してしまえば、一家は成り立たない。だからこそライバルと戦うのだが、結局その競争に勝ったとて……という絶望感のある最後の苦い後味が残る。この映画では、盆栽に針金が巻き付けられていたり、イ・ビョンホン自身が、ライバルを縛って殺そうとしたりと、「縛る」という描写が多かった。これも、男性を縛る家父長制を象徴していたのだろう。
この二本の映画は、現在進行形の家父長制の呪縛を描いており、ふたりの父親はそこから解放されることがなかった。つまりは、「オワリニンゲン」にならないようにしか生きられなかったということだ。ソン・ガンホは、「オワリニンゲン」になってもなお、いつまでも息子が金持ちになって豪邸を買い取ってくれる日を待ちながら地下で暮らしていかないといけないし、イ・ビョンホンも、ライバルを蹴落としてもなお、巨大な製紙工場で巨大な機会を保守するというどうしたらいいのかわからない仕事をひとりでし続ける。彼らを映画の中で解放する第三者はいなかったのだが、それは現実社会(特に韓国社会)が未だに、彼ら=父親たちを解放する存在が見つかりにくいということを描いているのだろう。
他愛ない人生、他愛ない暮らし
しかし、八雲は、世の中の変化についていけず、立ち尽くしていて、家長の座を自分に譲った司之介によって解放されるのだ。この終盤の展開を見て、司之介が働きすぎず、ときに立ち尽くしていたことには意味があり、ここに繋がるのかとはっとしたのであった。
最終回、トキはイライザの罵倒により、自分のせいでヘブン=八雲の人生がつまらないものであったのではないかと思い、イライザに自分の物語を書くように言われても、なかなか彼との思い出を思い出してしゃべることができないでいた。それどころか、八雲とのことを思い出すことに苛立ちすら感じてしまうし、言葉が出てくるようになっても懺悔の言葉ばかりであった。
しかし、あるときトキが、「フロックコート」を「フロッグコート」と勘違いしていて、その他愛のない間違いを密かに八雲が喜んでいたことを知る。正直、こんなに夫婦の愛情の深さを書いたドラマがほかにあっただろうかと思えた。八雲と一緒になり、家族ができたことを語るうちに、実は「他愛のないこと」にこそ、幸せがあったのだと気づくのだ。
その「他愛のない」こととは、名を成し、成果を残すこととは無縁の、ただ生きて、笑いあった人生を意味する。八雲はトキに言う。かつての自分は、「オワリニンゲンナイ」、そればかり考えていたと。つまり彼は、「終わった」と見なされないような人間になりたいと考えていたのだった。しかし、人は成果を出し、名を遺すことだけがその真価=スバラシではない。
それがわかったときに、私は初めてこの物語に描かれた「何も起こらない物語」の真の意味を思い知るのである。つまりは、人々が何をして何を残したのかではなく、ただ何をしゃべり何を笑いあってきたかこそが人生なのだということを。
text_Michiyo Nishimori illustration_Natsuki Kurachi

















