【武田砂鉄×向坂くじら】会話はすれ違うからおもしろい? 共感はワンダー性とともにあれ

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出版社勤務を経て、2014年よりフリーライターに。2015年『紋切型社会』(新潮文庫)でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。週刊誌、文芸誌、ファッション誌、ウェブメディアなど、さまざまな媒体で連載を執筆するほか、近年はラジオパーソナリティとしても活動の幅を広げている。近著に『わかりやすさの罪』(朝日文庫)、『マチズモを削り取れ』(集英社文庫)、『テレビ磁石』(光文社)など。

詩集やエッセイ、小説の執筆活動に加え、小学生から高校生までを対象とした私塾〈国語教室ことぱ舎〉の運営や詩のワークショップを行うほか、Gt.クマガイユウヤとのユニット〈Anti-Trench〉にて朗読を担当している。著書に『とても小さな理解のための』『夫婦間における愛の適温』(いずれも百万年書房)、『ことぱの観察』(NHK出版)など。小説『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)で第171回芥川賞候補となる。
▼前編はこちら!
円滑に進む会話はつまらない?
武田砂鉄さん(以下、武田):前編では、他者との距離感や心地よい関係性の維持について考えてきましたが、人の悩みって結局は今も昔もコミュニケーションに行き着きますよね。
ビジネス書では、「話し方」についての本がベストセラーとなるなど、いかに円滑なコミュニケーションを続けるかが到達点と考えられがちですね。
向坂くじらさん(以下、向坂):私は、コミュニケーションがきちんと成立している状態にあまりリアリティを感じられないんですよね。
交通事故でしか性的に興奮しない人々を描いた『クラッシュ』という映画があり、これを観たとき、なんとなく他人事じゃない気がして。日常が日常らしく滞りなく続いている状態に対して、あまり興奮しないといった感覚は理解できなくもないなあと。
コミュニケーションに関しても、大きく会話がすれ違っていくときに、人間の本質を感じるところがあります。
だから、夫婦喧嘩もちょっと嬉しい。喧嘩自体は嫌いなのですが、意味のわからない方向に進めば進むほど、関係性が深まっていく感じがするんです。
そんなディスコミュニケーションに興奮してしまう自分を反省もしていますが…(笑)。
武田:でも、ディスコミュニケーションを繰り返していると、おそらく相手はどちらかというと機嫌が悪くなっていきますよね。
向坂さんは、イライラではなく、ゾクゾク感が生じるんですね?(笑)
向坂:はい。自分を褒める人よりも、けなす人を信頼してしまうところがあって、それと同じように、ディスコミュニケーションでしか得られない“実体感”を求めているのかもしれません。
なので、全部のコミュニケーションが円滑に進むようになったら、私自身はとても生きづらいと思います。
武田:現代で理想とされている“便利”な社会は、ディスコミュニケーションを極力減らすことを目指していますよね。これからも、ディスコミュニケーションの在処は存続すると思いますか?
向坂:残ると思います。
確かに、技術の進歩によって、時間や空間、言語の壁は超えつつあると思うのですが、人間同士のコミュニケーションはテクノロジーによって超えてしまうことも、補強されることもないような気がします。
どんなに進歩しても拭いきれないディスコミュニケーションの“差”ってあると思うんです。
武田:おそらく、ディスコミュニケーションがなくなることはないけれど、なかったことにされる、ないように見せる技術は発達していくのかもしれないですね。
向坂:LINEのスタンプとかディスコミュニケーション隠しだなと(笑)。
本当は語るべきことが800字あるところを、スタンプひとつで、受け手側にどう咀嚼するかを委ねて、ディスコミュニケーションの可能性を閉ざしてしまっているので、もったいないなあと思います。
気持ちいいシンパシーにはワンダーがある
武田:お笑いって、いろんなジャンルがありますが、基本、ディスコミュニケーションなんじゃないかなと思います。
Aが言っていることとBが言っていることが噛み合わないからこそ突っ込むし、見ている方向が違うからトラブルが起きる。日常の会話でも当然みんなズレはある程度生じていて、そのズレをいくつも作ったうえで回収したり、過剰に壊したりしてうまく見せているのがお笑い芸人の方たちですよね。

そう考えると日頃から、コミュニケーションのズレをもっと楽しむという考えもありなんじゃないかなと。
向坂:歌人の穂村弘さんが、「短歌の魅力はシンパシー(共感)とワンダー(驚異)だ」みたいなことをおっしゃっていて、お笑いのネタがおもしろいのも、共感しながら、びっくりもしているってところにあるのかなと思います。
ある意味、シンパシーもワンダーの一種で、「日常のそこで共感できるの!」というワンダーを含んでいて、「私だからギリわかった」くらいがコミュニケーションでも一番気持ちいいところな気がします。
武田:全員が「あるある」となるのではなく、細かなところでつながって「あるある」となる感覚ですね。
向坂:気持ちいいシンパシーはワンダー性を持っているのかなと思うんです。
武田:今って、シンパシーの枠組みがどんどん拡張していますよね。ワンダー性なしに、なんでも共感されてしまって、そこに飲み込まれないようなものを差し出すのが難しくなってきています。
何を言っても、何を書いても「わかります」と言われ、「わからないで」と思うと、今度は「その“わからない”感じ、わかりますよ」「武田さんのその簡単に納得しない感じわかりますよ」とかが返ってきて、何でも共感できますで回収されてしまう(笑)。
詩はそこから逃げられる印象がありますが、どうですか?
向坂:逃げられはするのですが、逆に詩って、なかなか届きにくくて、売れない、全然流行らないんです…。
でも、シンパシーを介在させないものとして、流通していかないといけないみたいなものが漠然と詩にはある気がして。共感を通さずとも、おもしろいって思ってくれる人が増えたらいいなと思っています。
言葉の組み合わせって、思っているより有限で、ちょっと油断すると見たことのあるようなものができてしまうので、詩はなんとかそれを避けようとするんです。
でも、ヒットしている音楽の歌詞とかは、それを別に避けようとしていなくて、なじみがあるからこそ、聞いた時に自分を投影しやすい。そこが詩との違いなのかなと。
武田:「止まない雨はない」や「トンネルの先には必ず光が見える」など、いわゆるベタな表現って、自分だったら真っ先にガードが働いて、「やめよう」と思ってしまいます(笑)。
そういった自分を投影しやすいなじみある言葉が多くの人に届くのが現実だったとしても、少数派のなかで、そうではない言葉に対して、ワンダー性を帯びたシンパシーが波及するかもしれない。
向坂さんは著書の中で、「自分は型にとらわれないでやっている。でも、その型もあるかもしれない」と書かれていて、すごく素敵だなと思うし、たとえ少数派であっても、型にはまらない“型”にはまっていたとしても、その可能性を諦めずに戦いなと思います。
今日性を持つ自分だから、今日言っておきたい
向坂:短歌は最近ブームがきていますが、“エモ”と言われているみたいですね。エモが現れたことで、短歌ってそうやって受け止めていいんだって、エモという受容体に短歌がぴたっとはまったというか。
武田:エモの範囲も今、拡大していますが、それでも詩はまだエモくないんですか?
向坂:詩は全然エモくないですね(笑)。だからといって、エモであったり、何かを目指す必要はないと思っています。
エモを含め、すべてと距離をとっているうちに、自分の立場がよくわからなくなってきてもいますが…。
そもそも書くという行為そのものが、何かを書こうと思っているからこそ、その対象と距離が取れる。何とも近づきすぎない距離感が今はちょうどいいです。
武田:向坂さんは、以前インタビューで「今日書けることは今日しか書けない。明日には書けない」とおっしゃっていて、自分もよくそう感じています。
自分が書いたゲラが後日送られてきて「え、こんなこと書いたの?」といつも思うんですよね。
今日思っていることと、明日思っていること、明後日思っていることって、同じ自分でも変動していて、今日誰と会って、何を見たかがこの手先から出てくるものに反映される。
今日である性質=“今日性”みたいなものが常にあると思うと、ひとつの連載が、複数の人間が書いたかのようなものになっていく。一昨日はこんなで、昨日はこんな感じだったんだ、という繰り返しが連なってできている、その感覚は、割と好きですね。
向坂:ある事象に対して、当然、いろんな視点の人がいて、そのすべての人々が“今日性”を持って、時間的にも空間的にも移動していますよね。
私はひとつのことに対して、より多様な視点があるほうがいいなと思っています。だから、今日の自分にしか、その事象に対して、今日の視点を持ち合わせていない、と思うと、「今日、言っておく」というのをこれからも大切にしていきたいです。
illustration_Natsuki Kurachi text&Edit_Hinako Hase