【武田砂鉄×向坂くじら】他者と生きることは「永遠の微調整」である

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出版社勤務を経て、2014年よりフリーライターに。2015年『紋切型社会』(新潮文庫)でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。週刊誌、文芸誌、ファッション誌、ウェブメディアなど、さまざまな媒体で連載を執筆するほか、近年はラジオパーソナリティとしても活動の幅を広げている。近著に『わかりやすさの罪』(朝日文庫)、『マチズモを削り取れ』(集英社文庫)、『テレビ磁石』(光文社)など。

詩集やエッセイ、小説の執筆活動に加え、小学生から高校生までを対象とした私塾〈国語教室ことぱ舎〉の運営や詩のワークショップを行うほか、Gt.クマガイユウヤとのユニット〈Anti-Trench〉にて朗読を担当している。著書に『とても小さな理解のための』『夫婦間における愛の適温』(いずれも百万年書房)、『ことぱの観察』(NHK出版)など。小説『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)で第171回芥川賞候補となる。
マッチョさを帯びることが怖い
武田砂鉄さん(以下、武田):日本、どうなる!? 〜他者と生きる編〜Vol.1の頭木弘樹さんとの対談でも登場したように、昨今、「“多様性”や“曖昧さ”を大切にしよう」とさまざまな場面で言われるようになってきています。
その流れ自体はいいのですが、職業柄、そういった話の中で、“必要な言葉”、“必要ではない”言葉の「正解」を提示することが常に求められる空気を感じています。
向坂くじらさん(以下、向坂):わかります。「多様性って大事ですよね」とか「人それぞれですよね」「言い切らないことに真実がありますよね」という言葉そのものが持つ“言い切り”がすごい気になることがあって。
言い切る日もあれば、言い切らない日もある。それが真の言い切らない態度なんじゃないかなと。ずっと言い切らない人はある意味、“言い切っている”と思いませんか?
武田:そう思います。「人それぞれ」についても、本当に人それぞれのときと、それは人それぞれではないだろうという時があります。
でも、今の世の中はとりあえず「人それぞれだよね」と言っておいたほうが収まりがいい、になってきていますよね。
本当は「人それぞれ」をもっと解像度を上げて見ていきたいと思うのですが、その“先”を共有する場すらないのが現状です。
結果として、「人それぞれですよね、お疲れ様でした」というところで着地しやすい。
向坂:「人それぞれですよね」のあとに「お疲れ様でした」がスッと入りますよね(笑)。
武田:「AはBだ」と断定したあとに「お疲れ様でした」で切り捨てるように終わらせると“マッチョ性”を帯びてしまうし、それによって封じ込められてきた言葉がたくさんあると思います。
でも、「人それぞれですよね」のあとの「お疲れ様でした」はどうかというと、結構ゴリゴリマッチョな感じが残っているような気がします。
向坂:私を含め、多くの人がマッチョになってしまうことを恐れていて、発言の大きな方向性として、とにかく「いかにしてマッチョにならないか」みたいなことがあると思います。
最近は、マッチョさを全否定するというよりは、健康的にマッチョになることはできるのか、ということを考えたりします。
自分も年を重ねてきて、“偉く”なっていくにつれて、いかにマッチョさを健康的に受け止めるかが大きな課題になっていますね。
武田:私がフリーランスで働いているのは、会社員だと、年を重ねていく中でどうしても役職がついてしまう。それが嫌だったんです。
もちろん、今はそういった役職はないですが、自身が担当しているラジオ番組では、最終的に自分が判断をしなくてはいけない場面があり、そのとき、「マッチョな判断を下したくない」という思いが強く湧いてきて、マッチョの発生をすごく怖がってしまう。
でも、それってシンプルに言うと、「好かれたい」「嫌われたくない」ってことじゃないかってまた考えをめぐらせたり。
言葉の使い方や、他者への接し方については、ずっと不慣れなままだし、さらにそんな自分を監視カメラを通して確認している自分もいて、戸惑っているくらいのほうがいいのではないかと考えています。
向坂:私が以前勤めていた会社は、規模が小さく、密にコミュニケーションをとって、みんなが対等な組織であるということを大切にしていました。
そこで最終的にクビになったのが笑い話なのですが。やっぱりどうしても、雇用主と被雇用者という関係性は存在しているし、完全な対等はありませんよね。でも、“偉い”人が「私たちは対等な関係ですよね」というスタンスでいる、その“対等じゃなさ”みたいなものを当時から感じていました。
でも、いざ自分が“偉い”立場になったときに果たして、それに気づけるのかと考えたら、すごく怖いんです。
それに、対等を目指すのが果たして正解なのかもわからない。対等であるということのほかに、選択があるんじゃないかと。
例えば、親子や教師と子どもなど、圧倒的に最初から立場が均衡じゃない関係には、対等であること以外に、よりより共生関係があるのでは、みたいなことを考えています。
武田:それは、差異があるままでいる可能性ということですか?
向坂:そうですね。できることや、力関係に差があるままで、互いを嫌いにならないで、関係が持続するようなことってできるんじゃないかなって。
でも昨今は、多くの人がついつい“完全な対等”を目指しすぎていると感じます。
他者との関係性の本質は永遠の微調整
武田:以前、ラジオ番組で妻のことを「めちゃくちゃ仲のいい他人」と言ったことがあって、それが私にとって、すっと馴染む表現なんです。
一心同体というより、「自分にとってふさわしい、自分ではない存在がいて、その人と親しくしている」といった具合の、“空洞”がある距離感に心地よさを感じているし、大事にしたいんです。
そして、この距離感ってどうやったら伝わるだろうと悩む。向坂さんも、結婚や夫婦について著書のなかで書かれていますが、いかがでしょうか?
向坂:ネットにも本屋にも、夫婦やパートナー関係を良好にするためのティップスみたいなものを昔から見かけますが、それが今も出続けているということは、こうすればうまくいくという正解はないんでしょうね。
関係性についてのアドバイスって、友人同士についてはあまりない気がして。友人関係は多種多様なのに対して、夫婦やパートナー関係は、共通項が多いからなのかなと思います。
他人として出会い、恋愛関係になり、パートナー関係を結び、同居しているという、多くの場合、ざっくり同じ枠にはまっているじゃないですか。ざっくり同じということに頼ってつい比較して、口出しをしたくなっちゃうのかもしれません。

武田:確かに「なんでそんなことで揉めるんだよ(笑)」と思うことはたまにありますね。他人の夫婦のいざこざを見ると向坂さんはどう感じますか?
向坂:やっぱり一瞬は「そんなことええやんか」みたいなことを思います(笑)。でも、そのあとに「別に喧嘩してもいいかもしれないな」とも思います。その夫婦にとって喧嘩自体が悪いものじゃないのかもしれないなって。
逆に、喧嘩をしている人からしたら私たち夫婦は「もっと喧嘩したらいいじゃん」と思われているかもしれないですしね。
武田:人とのコミュニケーションで難しいのは、到達点がないという点にあるんでしょうね。それは夫婦やパートナー関係に限った話ではなくて、仕事や友人でも同じで、どこまでを目指すかって、互いに確認しないじゃないですか。
向坂:はい。それをしようとすると長い時間がかかりますよね。
武田:今は、さまざまな関係性の中で、「長い目で見ていきましょう」っていう前提は共有しにくいし、実際、共有できている関係性はあまりないと感じます。
本連載の第二回でも言及されていますが、政治学者の中島岳志さんは「保守とは永遠の微調整」とよくおっしゃっていて、中島さんは政治の文脈で使われていますが、他者とのコミュニケーションを含め、基本的に人生のすべて、そして一日単位でも、朝から晩まで微調整といっても過言ではないですよね。
向坂:政治以外にも汎用性の高い言葉ですよね。私もエッセーで引用していますが、そのときは教室の運営についてでした。
人って何かを改善したりしようってときに、ついつい大きなテコ入れをしたくなってしまうんですが、それってあまり本質的ではないということですよね。
夫婦、パートナー関係含め、「永遠の微調整」にこそ、他者との関係性のヒントがあるのかもしれません。
悪口やネガティブなことが持つ可能性
向坂:私自身は、元来、他者との関係性の構築は苦手で、見様見真似で学んできたような感じです。いろんな痛い目に遭いました。
例えば共依存になってしまったり、告白をされたり、セクハラをされたり、あとは仕事だとクビになったりして、結果として関係を断つという道に…。
武田:自分が思っていた距離感を飛び越えて、急に近いところにこられたら跳ね除けるしか選択肢はないですよね。
私は、仕事で表に出る機会が増えて、自分に対するチヤホヤみたいなものの発生を体験する機会がでてきたのですが、「チヤホヤに注意」と心がけていて、やたらと警戒感があります。
嬉しいのかもしれませんが、それすらわからず、チヤホヤとの付き合い方は未だにわからないというか…。
向坂:今風にいうと、推されているみたいなことですよね。推すことと推されることの異常さってやっぱりありますよね。
武田:ボーっと立っているだけで、ワーっと押し寄せてきて、「砂鉄!砂鉄!」と推されると、ここに立っているだけなんですけど、みたいな感じはします(笑)。
でも、「推すなよ」っていうのは、またマッチョ性が発動してしまう気もして、そのまま乗っかったほうがいいのかな、みたいなことも思ったり。
他者との適切な距離の設定は、自分でコントロールできるわけではない。人それぞれで、自分が望むより近くにきたり、もう少し近くで話したいのに、遠くにいたり。
なかなかうまくいかないですよね。
向坂:他者との関係性って、夫婦もそうですが、日々、距離も変わりますよね。それをほどよい距離感でキープするために何かできることはあるんでしょうか?
武田:私は妻と“悪口の共有”をしています。テレビや新聞の内容をネタにして、悪口がいい具合に合っていると、「よし」と思います。
好きなものが似ているというよりは、誰かや何かに対する違和感や攻撃性で合致すると、これは関係性のいいメンテナンスができると感じていますね。
向坂:私たち夫婦も好きなものは全然違うけれど、嫌いなものはざっくり同じで、嫌だった出来事は日々共有しますね。
武田:最近は、何ごとも綺麗にコーティングしようという力がすごく強く、ネガティブなことはどちらかというと、「言ってはいけない」という風潮があります。
でも、嫌なものは嫌と言ったり、腹が立ったら怒ってもいい。ネガティブなことのアウトプットの仕方、共有の仕方はもっといろいろあっていいんじゃないでしょうか。
皮肉なことやシニカルなことにもっと可能性があると私は感じています。
後編では、コミュニケーションの本質についていろんな視点から考えました。お楽しみに!
illustration_Natsuki Kurachi text&Edit_Hinako Hase