最近、“感動”してる?感動ポイントの入り口は日常にあるかも |松田青子エッセイ

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まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。
感動する対象に、未知なる大きなものを必要としない
この連載でどんなことを書こうかなと考える過程で、Hanako編集部のみなさんが世の中で、そして自分のことなどで気になっていることを時々教えてもらっている。その中に、
・欲しいもの、知りたいことにすぐに手を出せる今、未知への感動と出会えず、大人になってからの感動の仕方がわからない。
・大人になってからの恋愛のはじめ方がわからない。
との回答があり、今回はこの「大人になってから」について考えてみたい。いずれも感情が動くことが面倒くさい、もしくは面倒くさがっているうちに感情の筋力が衰えてしまった、という補足もいただいた。
まず、「大人になってからの感動の仕方がわからない」は、SNSが発達した今の世界では、まだ知らない何かに触れることで生まれる感動は、確かに難しいかもしれない。
でも、ストレス過多になりがちな現代社会の中で、感情を一定に保つのは自分を守ることでもあるので、いろんなことに左右されず、無意識に自分のケアができている方々でもあるのでは、とも考える。
私も今の仕事を続けるうえで最も大切なことの一つは、書く作業に集中するために、できるだけ自分自身を一定に保つことだと思っているので、そのためにできるだけのことをしている。
オーディション番組の『No No Girls』で、最終審査のステージが近づいてきた時に、プロデューサーのちゃんみなさんが出演者たちに、自分と向き合うために今からSNSを見るのは禁止と伝える場面があるのだが、あれは本当に重要なアドバイスである。
ただ、現在40代半ばである私自身は、日々感動ばかりしている。それはもう私の性質というか、幼い頃からの傾向でしかないのだけれど、私は感動する対象に、未知の何か、大きな何かを必要としないようなのだ。
近所の植物が咲いているだけできれいだと見惚れるし、外を歩いていて偶然出くわした人々や出来事などにも感銘を受けてしまう。
そして、私にとって最も日常的な感動の対象はフィクションである。本やドラマや映画、美術や音楽など、さまざまな創作物に触れては、一喜一憂する日々を送っている。

特に、小説の連載などをしていると常にアウトプットしている状態になり、出ていったのと同じくらいのインプットを体が欲するため、私は忙しければ忙しいほど海外ドラマを見る人間と化し、友人たちにさすがに見過ぎではないか、なぜそれが可能なのかと不思議がられている。
継続して好きなものがあると、時代の変化によってその対象も変わっていく軌跡を目撃することになり、古い時代を知っていることで、その変化にまた感動する。
つまり、歳を重ねれば重ねるほど、私は感動し続ける予定になる。
「推し」も多い。前述の『No No Girls』にも今年激ハマりしていた。
コロナ禍中には、今何か新しいことをはじめないとちょっと気持ち的にしんどいかもしれないと思い、オンラインで韓国語のクラスを受講し、新しい言語を学ぶことで自分の中の感動の量を保っていた。
昨年末も、あまりにもずっと忙しいので、「もう編まなければやってられん!」という謎の境地に達し、かぎ針編みをはじめ、夜な夜なニット帽やマフラーを編んでいたのが、それが最強のストレス解消法になった。
そういう意味では、私は我が脳内を退屈させない能力を独自に身につけており、自分で自分の機嫌を取る習慣ができている。これが、私のたどり着いた「一定」なのだ。
周囲のフリーランスの人たちも、「推し」が常に複数おり、長期的にはまっている対象や趣味がある人ほど、人としてゆるがない印象がある。
心の些細な機微の中に、感動ポイントの入り口はある
自分もそうだけど、おそらく仕事の内容的に、自分の「好き」を追求するクセが自然とできていて、何か良きものが現れた際に、ぱっと感情が動くようになっているのではないかと思う。
あと仕事と趣味に忙しすぎて、余計なことを考える暇がないのもある。
人それぞれ性格も違うし、つまり、感動するものも違う。なんだか感動できていないと感じる人は、自分にとっての本当の「感動ポイント」はなんなのかを、一度考えて、向き合ってみるのがいいのではないだろうか。
確かに、欲しいもの、知りたいことにすぐに手を出せる時代ではあるけれど、そこから自分自身が何を引き出すのか、何を感じるのかは、個々の感覚や力量によって差が出てくる。そこに「感動ポイント」の入り口があるはず。

自分の中の小さな心の機微や変化を意識してみると、意外と、「なんだ、これが私にとっての感動だったのか」と、気づくこともあるかもしれない。
海外旅行でめずらしい観光地に行って感動するのもいいけれど、毎日の生活の中で本気の感動を少しずつ見つけていくことのほうが、行動として地味な面白さがあるし、心への持続性もある。
ぬり絵でも太極拳でも、ちょっと気になっていることをはじめてみるのも、自分の心の機微や変化に気づく練習にはいいかもしれない。
そうしているうちに、自分にとっての感動を見つけるクセができてくるかもしれない。あと、無理に感動する必要を感じない人もいるだろう。それぞれが自分の感動の「最適解」を見つけられたらいい。
長くなってしまったので、大人の恋愛のはじめ方については次回考えたいと思う。
text_Aoko Matsuda illustration_Hashimotochan Edit_Hinako Hase