その時々の社会問題に取り組み、変革をもたらした 世界を変えた女性たち。 LEARN 2023.03.08

今のような女性たちを取り巻く環境があるのは、困難に打ち勝って茨の道を切り開いてきた偉人たちのおかげ。彼女たちの功績に触れ、これからわたしたちにどういうことができるのか、一緒に考えてみませんか?

AMERICA

黒人奴隷をルーツに持つアメリカ初のファーストレディ。:ミシェル・オバマ

2009年、夫のバラク・オバマが第44代アメリカ合衆国大統領に就任し、史上初のアフリカ系アメリカ人のファーストレディとなったミシェル・オバマ。夫と2人の娘、家族に尽くす母でありながら、女性教育や食育の重要性を説く誠実で力強い女性リーダーとして、夫の退任後も精力的に活動している。「There is no limit to what we as women can accomplish.(私たちが女性として成し遂げられることに限界はありません)」など、数々の素晴らしいスピーチで女性たちを勇気付ける金言を残している。

司法をもって性差別と闘った史上最も尊敬される連邦最高裁判事。:ルース・ベイダー・ギンズバーグ

コロンビア大学ロースクールを首席で卒業したルース。しかし、どの法律事務所もユダヤ系のルーツを持つ子持ちの女性を雇ってはくれず、ロースクールの教授として働いた。38歳の時、アメリカ自由人権協会「女性の権利プロジェクト」の顧問弁護士に就任すると、男性が差別された訴訟も含め性差別に関する裁判を多数担当。これらの功績が認められ、60歳でアメリカ連邦最高裁判事に就任。同性間の性行為や同性婚を禁止する法律を無効とし、平等な社会、性差別のない社会のために闘った。

POLAND

物理学と化学の分野で史上初の2度のノーベル賞を受賞。:マリ・キュリー

当時、女性にはなれない職業とされていた科学者を志し、パリのソルボンヌ大学に入学したマリ。そこで物理学者のピエール・キュリーと出会って結婚し、公私のパートナーとなる。貧しく限られた設備の中で懸命に研究を重ね、ついにポロニウムとラジウムを発見し、マリ36歳の時、夫婦共同でノーベル物理学賞を受賞。その後夫を不慮の事故で亡くすも、研究を続け44歳でノーベル化学賞を受賞。男性中心の世界で亡き夫の助手とみなされていたマリは、授賞式で自身の研究成果を堂々と語った。

RUSSIA

社会主義の理想を一身に背負い女性として初の単独宇宙飛行に成功。:ワレンチナ・テレシコワ

1963年、宇宙行きを望んだ8,000人の女性の中から選抜をくぐり抜けたワレンチナ・テレシコワは、人類初の女性による単独宇宙飛行に成功した。彼女は、裕福ではない労働者家庭の生まれで、家計を助けるためにタイヤ工場や紡績工場で働いていた苦労人。女性が宇宙飛行士になったことで、「社会主義のもとで女性は平等の可能性を持っている」という理想を世界に示した。その後、ソ連邦の英雄として空軍少将にまで昇進し、宇宙飛行士引退後は政界に進出。80代の今も現役議員として活動している。

BELGIUM

自身の築いた名声を社会貢献に生かし恵まれない人々を愛で満たした。:オードリー・ヘプバーン

映画『ローマの休日』で一躍スターとなったオードリー。実は、10代前半を第二次世界大戦期のオランダで過ごし、レジスタンス活動を助けながら生き抜いた。また、当時バレリーナを夢見ていたが、戦争による飢えで踊れないほどに衰弱。この時、慈善団体から食料援助を受けたことが晩年のユニセフ親善大使としての活動の原点に。世界の現状を人々に訴え、苦難を抱える人々に寄り添い、病に倒れるまで世界平和に身を捧げた彼女は、「自分が有名になったのはこのためだった」という言葉を残した。

FRANCE

着心地と機能性を重視した服で女性たちを心身ともに解放。:ココ・シャネル

幼い頃に孤児院に預けられたココ・シャネルは、生活費を捻出するため服飾店に就職。資産家男性からの援助を受けて、最初に開業したのは帽子店だった。また、自分用に作ったジャージー素材の服が瞬く間に評判を呼び、コルセットで締め付けるのが当然だった女性のファッションに変革をもたらすことに。第二次世界大戦を機に服飾部門は撤退するも、15年後、70歳でカムバックを果たし、女性の社会進出が進んでいたアメリカを中心にビジネス的成功を収め、業界に返り咲いた。

JAPAN

自らの留学経験を生かし日本女子の高等教育の土台を作る。:津田梅子

わずか7歳で国費留学生としてアメリカに渡った津田梅子。約11年後に帰国した際、日本における女性の社会的地位の低さにショックを受け、高等教育の必要性を痛感。自身が留学生として得たものを女性たちと分かち合えるような、自らが理想とする学校を創る夢を持つ。その後、再度のアメリカ留学を経て支援者獲得に奔走し、1900年、ついに念願だった女子英学塾(現・津田塾大学)を創設。教え子たちには“all-round women(視野の広い女性)”になることを説き、自立した女性の育成に一生を捧げた。

女性解放、反戦平和を主張した日本におけるフェミニズムの祖。:平塚らいてう

幼少の頃から日本の良妻賢母教育に疑問を持ち、自己の内面世界を追求する早熟な少女だった平塚らいてう。10代で禅と出会い、臨済宗の道場に通い悟りを体験する。25歳の時、成美女子英語学校の恩師の勧めで女性だけの文学雑誌『青鞜』を仲間と創刊。有名な一節「元始、女性は実に太陽であった」は、らいてうによる創刊の辞の冒頭に当たる。33歳の頃、母性を尊重する社会を目指し「新婦人協会」を設立。その後も、主に文筆活動による婦人運動の推進、平和活動を、病に倒れるまで展開し続けた。

性差別をはじめとする困難を乗り越え日本初の女性医師として開業。:荻野吟子

10代で不慮の病にかかり、「なぜ医者は男性ばかりなのだろう」と、女性医師の必要性を痛感した荻野吟子。女性に学問は必要ないとされた男尊女卑の時代に、男子学生の中で孤軍奮闘しながら不屈の精神で学び、31歳で私立医学校・好寿院を優秀な成績で卒業。しかし、医術開業試験の願書は女性であることを理由に2年連続で却下。内務省衛生局長に直談判し、なんとか受験の許可を得、晴れて合格。34歳で産婦人科〈荻野医院〉を開業するとたちまち評判に。その後は女性の地位向上の活動にも尽力した。

女性蔑視の風潮に屈することなく日本初の女性理学博士に。:保井コノ

秀才少女だった保井コノは、理科の専門書を読むために独学で英語の勉強をし、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に進学。卒業後は高等女学校の理科の教師になるが、自ら作った教科書が性差別によって不採用に。この悔しさから研究の道に活路を求めるようになり、鯉の研究で日本女性初の学術論文を発表。その後、シカゴ大学に続きハーバード大学で石炭を研究。帰国後は教師と研究者の二足のわらじの生活を送りながら、47歳の時についに研究が認められ、日本初の女性理学博士となった。

戦後の復興とともに歩んだ漫画『サザエさん』の生みの親。:長谷川町子

絵を描くことが大好きだった長谷川町子は、15歳で漫画家デビューを果たし、天才女性漫画家として注目の存在に。戦争で福岡に疎開していた時、地方紙のために執筆したのが庶民の日常をユーモアたっぷりに描いた4コマ漫画『サザエさん』だった。その後連載は『朝日新聞』に移行し、28年間、町子54歳の時まで続くロングランヒット作に。戦後日本の復興期という激動の時代を明るくたくましく生きるサザエさん一家の姿は、多くの人々の共感を呼び、ほのぼのとした笑いで包み込んだ。

アジア初のユニセフ親善大使として世界の子どもたちに寄り添う。:黒柳徹子

テレビ俳優一期生としてデビューし、長年俳優として幅広いフィールドで活躍してきた黒柳徹子は、1984年、アジア初のユニセフ親善大使に任命された。タンザニア、インド、カンボジア、イラクなど40カ国近くを訪れ、現地の子どもたちに寄り添い、のべ約60億円もの募金を集めユニセフに寄付。また自身の幼少期の体験を書いたベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の印税を基に、ろう者支援のための「トット基金」を設立。ほかにもパンダ保護など、献身的な社会活動を長きにわたり行う。

illustration : Suzuki Itsuko text : Saori Tsuchiya

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