入社2年目で長女を出産、育休中に改めて考えた自分の得意分野。 「育休中に見つけた武器が、子育て後の私を助けてくれた」#01 堀井美香さん (アナウンサー) 前編 MAMA 2023.01.17

第一回のゲストはアナウンサーの堀井美香さんだ。堀井さんは、TBSに入社後アナウンサーとして駆け出しの2年目で結婚、そして長女を出産。その後、長男を出産し、20代はほぼ育児で終わってしまう。育休中は、早い段階で自身のライフプランをじっくり考える時間に恵まれ、ナレーションの道をひた走ることを決意したという。復帰後は子育てと仕事の間に挟まれながらも、勤続27年の会社員人生を務め上げた。そして、2022年春。子どもたちは大きくなり、子育てはひと段落。アナウンサーという仕事も会社員としての役割も果たし、やり切って「沖に出る」ことを決意しフリーランスとなった。現在は、本業のナレーションや司会の仕事をしつつ、かねてよりあたためていた朗読会を企画したり、思ってもみないようなオファーを受けたり……。会社員時代には考えられなかった毎日を送っているという。

秋田県出身で自宅は郵便局。父親は公務員で母親は保育士、4人兄弟の三番目。ごく普通の田舎の家庭に育った堀井さん。母は働いていたが、まだまだ女性が働くことに対して偏見を持つ人も多かった時代、親戚の中でもあまりよくは思われていなかったという。両親は働くこと自体に対し反対はしていなかったが、働くなら公務員がいいとか、24歳までには結婚して欲しいと息を吸うように言っており、堀井さんはそうした考え方に疑問を持つことすらなかった。

「今は考えられない事ですが、当時の田舎はまだそんな事を気にする人たちがいたんです。姉が大学を出てすぐ、母が姉の嫁ぎ先の心配をしはじめ、早く結婚してもらわないと……と口癖のように言っていたのを覚えています。一人で生きていくとか、女性が華々しく活躍するとか、独身を謳歌するような世界を見せてくれる人もいなかった。ひょっとしたら小説とかでは、そういうものを読んでいたかもしれませんが、本当に小さな頃から刷り込まれていたので、他の生き方がピンと来なかったんでしょうね。それで窮屈な思いをしていたかというとそういうわけでもなくて、みんなと同じように結婚しておばあちゃんになっていくのは自然なことだと思っていました。でも、それぞれの人生で輝いているたくさんの人に出会って考えは変わりました。自由に選択できる事は何て素晴らしいのだろうと」

一番身近な「母」は、保育士という仕事を持っており、子育てにも常に一生懸命に真面目に取り組む人物だった。毎日毎日仕事で帰りが遅く、帰ってからも家事に勤しむ忙しい母を見て育った堀井さんは、専業主婦の母に憧れを持っていた。

「小学生の時は専業主婦のお母さんがうらやましかったですね。兄や姉もいたんですが、年が上だったので家にはいなくて、学校から帰ったらいつも一人でした。一人で家に帰ってきて暗い中でテレビをつけて、母親の帰りを待つ。夜7時くらいになると車のヘッドライトが見えて、母親が帰ってきたことがわかる。母は帰ると、すごい勢いで夜ご飯の支度を始めるわけです。田舎でお総菜が売ってなかったこともあると思いますが、子どもに野菜とかきちんとしたものを食べさせたかったんでしょうね、出汁をとるところから始めて、ものすごくきちんとお料理をしていました。その間に私が話しかけようとすると『ちょっと待って、今料理中だから!』と言われる。私の誕生日の時も、ロウソクに火を点けたケーキを持ってきたかと思ったら「ささ、早く消しちゃって!」と(笑)。母はすごく優しいんですが、真っすぐなんです。子どもに野菜を食べさせたり、ケーキを食べさせることに意味があって、そこに至るまでの豊かな時間とか雰囲気までを考える余裕もなかったんだと思います。だから友達の家に行った時に、その家のお母さんがクッキーやケーキを一緒に焼いてくれたり、一緒に編み物をしたり、好きな歌謡曲を一緒に聴いたりしてくれたのはうらやましかったし、そういうママになりたいなと思っていました。でも結局、自分も同じ道を行ってしまいました(笑)」

大学時代は公務員の専門学校にも通っていたという堀井さん。親のすすめでお見合いも経験した。しかし、卒業したら秋田に帰って実家を継ぐのかと思いきやTBSに入社。堀井さんが入社した1995年は、花の女子アナブームの時代だった。そのブームに乗って華々しく活躍する矢先、入社2年目で結婚、長女を妊娠することになる。当時のテレビ局では入社数年の新人アナウンサーが育休を取るなんてという反応で、当然、社内の風当たりは強かった。

「早く結婚するのが普通だと思ってもいましたし、今の夫ですが運命の人に出会ってしまったという感じだったので、結婚することに躊躇は全くありませんでした。でも、当時はいろいろ言ってくださる方もいて。『大きい番組つけようと思っていたのになんで今なんだ』とか『期待外れだった』と上層部の方が言っていると人から聞いて、私は常識はずれなことをしたんだと泣いたこともありました。当時の日記には『誰に責められてもあなたを一生守り続けるからね』とお腹の子に向かって書いてあって。相当追い込まれていたんだと思います。また、せっかくのキャリアを捨ててと言われたこともありますが、就職した当時はアナウンサーとしてこうなりたい、というビジョンも何もなかったんです。もし、私が優秀で自分に自信があってアナウンサーとして一番を極める!みたいな野心があったとしたら、その地位を捨てて育休に入るなんて考えられないと思うのですが、そうした意識が低かったので簡単にキャリアを止めることができたんだと思います。でも、私がそういう流れになったのも本当にたまたまで、今だからこうやってお話できますけど、当時は自分がした選択が正しいかどうかなんて、まるでわからなかったんです」

人生いつのタイミングで結婚し出産をして、いつ復帰をするか。それはいくら綿密に計画を立てても遂行できるものではないだろう。堀井さんは、たまたま来たタイミングを逃さず休むという選択をした。第一子の出産では最大限に育休を取った。その10ヶ月は、子どもと真正面から向き合うとともに、自分の人生を考え直す時間にもなった。

「育休に入るまでは、キャリアについての考え方も割とふわふわしていたんですが、人の話を聞いたりして知恵をつけたりして、少しずつ考え方が変わってきました。TBSでキャリアを積み上げていくってどういうことなのか、子育てと仕事を両立するって何だろう、アナウンサーを続けていくためにはどうしたらいいだろうと考えるうちに、少しずつ自分の中で得意なことや、周囲から褒められること──それがナレーションだったんですが、これを核にしてやっていこうという戦略というか生きる術みたいな道筋が見えてきたんです。当時のアナウンサーはテレビにたくさん出るのが成功で、ナレーションは光の当たらない仕事というイメージ。私は入社当初からナレーションをやりたいと言っていたんですが、プロデューサーから『あんまりナレーションやりたいって言わない方がいい』と言われたりしたこともあります。育休中に一人で考えていた時、だったら人があまりやりたいと思わないナレーションを極めてみようって思ったんです。ナレーションだったら、ニュースもバラエティも旅番組も、いろんなジャンルの枠を超えた仕事ができる。そうしたらおばあちゃんになるまでアナウンサーって言えるかもしれないなと。ナレーションで行く!と決めたらあとは突っ走るだけなので、すごく楽になりましたね」

その後、アナウンサーの後輩の指導をする立場になり、仕事と育児についての相談を受けることも増えた。「育休中に何かやっておいた方がいいことは?」と聞かれた時は、よくこう答えていたという。

「自分の武器になるもの、これは得意というものは、短い時間でもいいのでとにかく続けること。子育てが終わったときに助けてくれたりします」

後編 「トータルで帳尻を合わせればいい」肩の荷が下りた先輩からの言葉

photo:Eri Kawamura text:Keiko Kamijo

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