児玉雨子の「ひとくち分の街の記憶」#2「最近、新しさが歯にしみるんです」――歯医者帰り、目黒へカレーうどんを食べに行く

児玉雨子の「ひとくち分の街の記憶」#2「最近、新しさが歯にしみるんです」――歯医者帰り、目黒へカレーうどんを食べに行く
ぶらり訪れた先で、何を食べ何を思う? 小説家・児玉雨子さんの新「街歩きエッセイ」
児玉雨子の「ひとくち分の街の記憶」#2「最近、新しさが歯にしみるんです」――歯医者帰り、目黒へカレーうどんを食べに行く
TRAVEL 2025.05.11
小説家・児玉雨子さんが軽やかな筆致で綴る街歩きエッセイ。第2回目は「かれーうどん」が名物の目黒のうどん屋さんを訪れました。歯医者さんの帰りに!

 ビキーン! と刺激が走り、うがいしていた水を飲み込み、咽せ、咄嗟に吐き出した水で足を滑らせ、腰をぶつけてうずくまる。冴え返るある早春、ひとり洗面台で溺れかけていた。

 すべての原因は歯肉退行による知覚過敏だ。三年前までワイヤーの歯列矯正をしていたのだが、そのときに歯磨きをがんばりすぎて、一本だけ歯肉が落ちてしまった歯がある。しばらく矯正歯科でのアフターケアとして薬を塗ってもらったり、知覚過敏用の歯磨き粉を使ったりして騙し騙しやってきたのだが、アフターケア期間が終わってしまい、塗布した薬の効果もすっかり切れてしまった。

 今までも知覚過敏をどうにかしたいとは思っていた。たまに思いつきで「歯肉退行 治療」と検索しては、さまざまな症例写真や術式を読んではその写真のグロさに圧倒され、黙ってスマホを伏せて何も見なかったことにして、そのまま時が過ぎていった。

 いつ死ぬかはわからないけれど、人生を80年と仮定するなら私の一生はあと50年とちょっと。その間、死ぬまで冷たいものを食べるときは毎回どぎまぎしないといけないのだろうか。うっかり象牙質に物が当たったら、そしてこうしてひとりですっ転んで勝手に満身創痍になるのだろうか……。

 そう思うとなんだかいろんなことが惜しいような気がして、真剣に歯肉治療を始めることを決意した。

 ネットで検索して見つけたクリニックでは、まず歯のレントゲンと歯周病の検査を受けた。お金をかけて直した歯並びはもちろんだが、元々私はミュータンス菌がいないのか虫歯にはなりにくい体質なのもあって、無事に虫歯も歯周病もなく、歯肉退行した箇所以外は健康な歯茎だった。

 そして記録のために口を器具でむりやり引っ張りながら歯の写真を撮る。この撮影は歯列矯正中から何度か経験があったが、あまりにもスタッフさんも力いっぱい引っ張るので、このまま口がべりっと裂けたらどうしよう、と毎回恐々とする。

 それから、治療方法を説明してもらう。

 歯肉は基本的に一度落ちると復活しないそうだ。治療や対策としては、剥き出しになった象牙質にレジンをつけて物理的に覆ってしまうとか、歯茎にヒアルロン酸を注入して盛り上げるとか、神経にレーザーを当てて痛みを感じなくさせるとかがあるのだが、ここの病院は歯肉移植という手段もあるらしい。シンプルに、別の場所から健康な歯肉を切り取って、歯茎が落ちたところに縫い付ける。レジンやヒアルロン酸はあくまで対処療法だし、神経を抜くことはなるべくしたくないので、これを受けたいです、と先生に相談すると、念入りに手術の手順を説明してもらう。

 昔は地上波の医療ドラマのシーンですら目を伏せていたほど血や傷が苦手だったのだが、いざ自分が困るとそんな恐怖心など吹っ飛び、血まみれの症例写真を血眼で見てしまう。メモをとりながら、先生に質問を繰り出す。術後ある程度落ち着くのは何日くらいなんですか、食べちゃいけないものってありますか、術後のアフターケアってどんなことしてくれるのですか……。素人の質問をぶつけまくってしまったのにもかかわらず、先生はすべてにわかりやすく返してくれた。とりあえず、術後はしばらく患部を刺激しないよう、食べ物も刺激物をなるべく避けてほしいと言われる。

 歯肉移植は自費診療なのである程度は覚悟していたものの、今日の検査と、さらに当日行う検査代、手術代、静脈鎮静注射、感染予防や痛み止め薬代……と、想定していた倍以上の治療費の見積もりを出されて内心ぎょっとする。内心、といいつつ動揺を勘づかれたのか「決して安くない金額だから無理のない範囲で考えておいて下さい」と先生は相変わらず親身でやさしい口調だった。血まみれの画像をいきなり一気に見たからか、本気で治したいからか、治療費の金額にかえって興奮したからか、「歯医者に行く時点でもう決心は固いですよぉ!」と威勢のいいことを言いながら、歯科医院を出た。

 どう考えてもアドレナリンが出てしまっている異常独身三十代女性だ。

 春のまだ肌寒い夜風に吹かれながら、術後はしばらく刺激物食べられないのかぁ……と考えると、急にいろんな辛そうなものがつぎつぎ頭に過ぎる。最近流行りの麻辣湯、韓国料理全般、大好きなニュータンタン、ラーメン、焼肉、ビリヤニ。でも最近は少し体脂肪を落としたくて、ジムの頻度を上げているんだよなぁ……もっとヘルシーそうだけど、刺激があるもの……やっぱり麻辣湯? キムチたっぷりの冷麺、カレー……カレーうどん!   

 電車の中で知覚過敏よろしくピキーンと何かが頭を駆け巡り、目黒で途中下車し、こんぴら茶屋へ向かう。というか歯医者の帰りに食べるカレーうどん、なんという背徳だろう。誰とも戦っていないのに「はい、勝った」みたいな気分になってくる。やはり人はいきなり血とお金を見るとハイになるようだ。

 タイミングよく並ばずに店に入れて、最奥の席に通してもらう。トマトカレーうどんに、豪勢に海老天まで注文する。私、口の中の肉をちょこっと切って貼ってするだけにこんな金払おうとしている人間なんだから、海老天トッピングなんて造作もないね……といった歯医者ハイになってしまっている。

 妙な優越感に浸りながらどっかり席に座ってカレーうどんを待っていると、隣の席に男女四人客が座った。大学生くらいに見えるけれど、会話の様子から若い社会人なのかもしれない。

「先週末あのあと飲み過ぎて、電車で爆睡しちゃって終点まで行っちゃった」

 ひとりの男性がそう話し出す。別の男性が「やば。どうしたんその日」としっかりと会話のラリーを返す。「てかそのときの記憶がなくて、起きたら知らん場所の漫喫にいたんだよね」

「えー、私、記憶なくなるまで飲んだことないんだけど……」

 グループの中の唯一の女性がそう打ち明けると、男性たちは「えー!?マジで!?一度も!?」「一回くらいはないの?」とやたら食いつく。女性は、うん、ないよ、とニコニコ返す。トマトカレーうどんと海老天が運ばれる。写真を撮り、紙エプロンを首にくくる。

「セーブできてんのえらいね」

「いや、私、正直わかんないんだよね、許容量」

「あ、そこまで飲んだことないってこと?」

「うん」

「ふーん」

 何か、このままだとキモくなりそうな会話の流れが出来始めて、身構える。

 折に触れていろんなところで書いているのだが、私は下戸だ。全然飲めないのもあって「オレワタシ昨日めっちゃ飲んじゃったんだよね」みたいな話がとても苦手だ。歌詞も小説も、それが効果的に描かれているのならまだわかるけど、なくても話が成立するような飲酒描写でフワっとエモさを醸されると腹が立つ。酒の種類で人間や恋愛をたとえているものなんて最悪だ。

 下戸人間の独断と偏見だけど、飲酒自慢はやはり若ければ若いほど増える傾向がある。久しぶりにこの手の会話を耳にして気恥ずかしくなりながらトマトカレーうどんを啜る。私も年齢を考えるとなかなか早いほうだけど、歯肉後退の治療相談の後にこの若い言葉の応酬はさすがに心にしみる。うどんは、おいしい。麺のコシが強くて、こってりしたカレーとミニトマトの酸味がちょうどいい。

 すると言い出しっぺの男の子が「許容量はわかっておいたほうがいいよ。まぁ、確かめるならひとりで誰もいない時にね。それで、そこの漫喫でせっかくだからこの漫画読んだんだけどさ……」とさっとつまらん酒トークを終わらせ、話題を変えたのだ。会話はそのまま漫画やアニメの話に向かってゆく。

 これがZ世代……。思わず箸が止まる。

 私はてっきり、ここで「俺たちと一回潰れるまで飲もうぜ」などと言い出すのかなぁと思っていたのだ。というのも自分が学生のころはまだ飲酒強要文化が残っていたので、飲めないと断っても「飲み慣れてないだけ、今度一緒に飲みに行こう」と食い下がるひとがいたからだった。

 そういうわけで、隣のグループの、今どきのやさしい感性がかえって私には刺激が強い。ただ生き物として若いだけでなく「価値観のアプデ? これが当たり前じゃないですか」とでも言いそうな、頼もしい新しさ。うらやましい……。この、無理に飲まそうとしない感じ。私もその「感じ」の中でもっと身を委ねていたかったな、と少し悔しいような気持ちになる。

 今までは年上のひとに世代論の話をされるのが苦手だったけれど、あの時あのひとはこういう気持ちだったのかな、とカレーだしを飲みながらしみじみと考える。新しいものがしみるようにもなってきて、世界の味わい方も変わってきた。

 でも時代や世代は歯肉のように切ったり貼ったりができないものだし、結局自分だけのやり方で時代とリズムを合わせて、自分だけのやり方で暮らしてゆくだけなんだろう。


手打ちうどん こんぴら茶屋

〒141-0021 東京都品川区上大崎3丁目3-1 坂上ビル1F
※JR、東急目黒線、都営地下鉄三田線、東京メトロ南北線 目黒駅 徒歩3分

公式サイト:https://konpira-chaya.com/

児玉雨子
作詞家、小説家。

アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。著書に第169回芥川賞候補作『##NAME##』(河出書房新社)、『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)等。17人の作家によるリレーエッセイ集『私の身体を生きる』(文藝春秋社)に参加。

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