「 白味噌レモン豆乳チキン 」 児玉雨子のきょうも何かを刻みたくて|Menu #11
「生きること」とは「食べること」。うれしいときも、落ち込んだときも、いそがしい日も、なにもない日も、人間、お腹だけは空くのです。そしてあり合わせのものでちゃっちゃと作ったごはんのほうがなぜか心に染みわたる。作詞家であり作家の児玉雨子さんが書く日々のできごととズボラ飯のこと。
白味噌お雑煮派の味噌余り問題。
これを書いている時期は年も明けてしばらく経った一月中旬なのだが、ここ数日私の頭にずっと引っかかっていることがある。一月特有の余ったお正月の食べ物問題である。
この年末年始はちょっと大変で、だけど同時に心に残る瞬間があった。クリスマス前から発熱してしまい、それから連日ベッドで寝ていた(ちなみに、新型コロナやインフルではなく扁桃炎だった)。大晦日にやっと熱が下がったので、近所のスーパーに行ったり、予約していたおせちを受け取ったりして、なんとか年越しの材料は揃えられた。しかし一週間ほど横になっていたため、体力が落ちてしまいバテやすくなっていた。簡単な掃除だけで疲れてしまい、夕飯を食べて、カウントダウンなども何もせずこんこんと寝て年を越した。
元旦は、本来昆布だしで作るべきところを、横着して顆粒だしで簡単になんちゃって京風お雑煮を作った。ふとSNSを見ると、初日の出を見に行ったひとや、初詣に行ったひと、帰省先や旅行先で過ごすひとたちの投稿が目に入る。いいなぁ、出かけたいなぁと思いながら、空気を入れ換えるために掃き出し窓を開けると、数日間閉め切っていた私の部屋に、ぱっと明るい光と澄んだ朝の空気が転がり込んできた。
元禄期の年末年始の人間模様を描いた井原西鶴の『世間胸算用』という文芸作品がある。町人と商人を中心に、さまざまな環境で暮らす人々が大晦日の総決算や、元旦の食事の手配に奔走する様を描いている。富める者、貧する者、病める者、健やかなる者―どんな者にも元旦の朝日は平等に降り注ぐ、といった内容で物語は結ばれる。作中で描かれる初日の出は、もしかしたらこんなふうだったのかもしれない。当たり前のものだけど、病み上がりの体にはとてもきらめいて見えた光景だった。
こんなふうに素敵な一年のはじまりを迎えたものの、お雑煮は元日に食べ切り、二日以降もだしを引くのが面倒でインスタントスープで乗り切るという、相変わらず面倒くさがりな日常を送り、今年は例年より多く白味噌を余らせてしまった。とりあえず使いきれなかった野菜と鶏肉を焼き、豆乳と白味噌を混ぜて一緒に煮てみた。レモンを入れると豆乳がゆるく固まってクリームのようになり、ちょっとしたごちそうになった。和風シチューのようであり洋風お雑煮のようでもある。
さぁ、そろそろ調子も戻ってきたし、遅めの初詣と散歩に出かけようかな。今年もたくさん食べて動くぞ。