「いわし味噌缶炊き込みごはん」 児玉雨子のきょうも何かを刻みたくて|Menu #15
「生きること」とは「食べること」。うれしいときも、落ち込んだときも、いそがしい日も、なにもない日も、人間、お腹だけは空くのです。そしてあり合わせのものでちゃっちゃと作ったごはんのほうがなぜか心に染みわたる。作詞家であり作家の児玉雨子さんが書く日々のできごととズボラ飯のこと。
ズボラとこだわりの間で、玄米ごはん一考。
アレルゲンフリー、グルテンフリーなどの体質や健康面だけでなく、ヴィーガンやハラールなどの宗教的配慮からも、日本でも徐々に食事の選択肢が増えている。なんの食物アレルギーもタブーも持たない私だが、唯一といっていいほど主体的に選択したものがある。玄米だ。
理由は単純で、あんまり白米が好きじゃなかったのだ。一方で食べ物を残すことにもなんとなく抵抗を感じており、「とりあえず食べなくちゃいけないもの」として飲み込んでいた。
ただ、おせんべいなどの米が原材料のものすべてがダメというわけではないので、苦手な食べ物を訊かれても「特にない」と答えるようにしていた。生きづらさ、というほど深刻ではないものの、白いごはんと答えると驚かれるし、お米を作っているひとを傷つけるし、我慢できるし、説明も面倒だった。
玄米に切り替えたきっかけもまた単純で、一人暮らしを始めたからだ。ふるさと納税の返礼品でストックできる主食を貰おうとして、ふと玄米が目にとまったのだ。元々便秘体質なのもあり、玄米にその改善を期待して、軽い気持ちで二キロだけ頼んだ。届いた後、同梱されていた炊き方の説明を見て愕然とした。玄米は炊飯前に12時間以上の浸水が必要なのだ。こんなズボラには続かないだろうと思いながら、説明の通りに炊いた。
炊き上がった玄米はパサパサしすぎず、また白米ほど甘くないためおかずの味がとても映えて、ぺろっと平らげられた。玄米特有のにおいも洗い方さえ気をつければ抑えられるそうだが、そもそもそのにおいも気にならないくらい、私には玄米が合っていたようだ。
それからごはんが大好きになって、玄米で炊き込みごはんやチャーハンなどもよく作るように。今回は、家にあったいわしの味噌煮缶と旬の新玉ねぎ、だしがらの昆布を一緒に炊き込んだ。新玉ねぎは刻まなくても加熱するとしゃもじで切れるほどやわらかくなる。洗米・浸水でがんばった分、炊き込む過程では存分にズボラを発揮。
玄米に替えてからの変化はもうひとつある。たまの外食で白いごはんを食べると、とてもおいしく感じるようになったのだ。お店だからおいしく炊けているだけなのかもしれないけれど、白米に抱いていたマイナスイメージを払拭できたからでもあると思う。
苦手なものを我慢しすぎず、別の道を探してみることの大切さを、まさか玄米で実感するとは。