「厖大な数で最小単位のわれわれ」――第8回横浜トリエンナーレ後編 (旧第一銀行横浜支店・横浜美術館「野草:いま、ここで生きてる」を中心に) | 児玉雨子のKANAGAWA探訪#9 TRAVEL 2024.05.24

神奈川県出身の作家・児玉雨子さんによる地元探訪記。今回は、現在開催中の「第8回横浜トリエンナーレ」を訪れてみた、の続編。フィリピンの詩人カルロマー・アークエンジェル・ダオアナ、リメイクブランド「途中でやめる」の山下陽光、写真家の石内都、ドイツの美術家インゴ・ニールマン&エリック・ニードリング、アニメーション作家オズキュル・カーといったアーティストの作品に刺激を受けた雨子さんの日々を綴ります。
横浜トリエンナーレは3年に一度開催される現代アートの祭典。みなとみらい地区をはじめとする横浜の街を舞台に開催され現代アートへの入門編として幅広い人々に親しまれている国際展です。

前回の横トリの原稿を読んだ編集者から、ぜひ続編も!と言っていただき、前回行きそびれた旧第一銀行横浜支店、横浜美術館の「野草:いま、ここで生きてる」の展示を観に行くことに。それぞれ違う日に行ったので、日記形式で記してみた。

 四月十二日(金)
 都内で打ち合わせという名のおしゃべりランチをしたあと、先日営業時間に間に合わなかった旧第一銀行横浜支店へ。
 前回のエッセイでは簡単にしか触れていなかったのだが、トリエンナーレのタイトル「野草:いま、ここで生きてる」は、魯迅の散文集「野草」から着想し、環境破壊、戦争、経済格差、差別、不寛容などの問題がある世界で、無防備でもたくましく生きようとする野の草のようなわれわれの姿を表現する企画だ。

旧第一銀行横浜支店

神奈川県横浜市中区本町6丁目50-1
*横浜高速鉄道みなとみらい線「馬車道」駅 1a出口徒歩1分

SIDE CORE≪constraction giant≫2024
SIDE CORE≪constraction giant≫2024

本邦においてはファインアートかポップアートかではなくて、政治的主張がやんわりと覆われていて、刺激的だけど心底までは傷つかず、商業的に取り扱いやすく、大きな権威を帯びたものが「アート」とみなされるのだと個人的に思う。「野草」の展示はそういったものと対極にあって、厖大な数の作品群に込められた最小単位の祈りに息をのみつづけた。(参加アーティストはすばらしい実績を持つ方々ばかりだった)

カルロマー・アークエンジェル・ダオアナの「台所の異教徒(The Infidel in the Kitchen)」という詩が好きだった。詩の前で、頬にこぼれおちるまで涙が目の表面いっぱいに溜まっていたことに気づかなかった。

旧第一銀行横浜支店 横浜トリエンナーレ 児玉雨子

そのなかでちょっと変わった作品があった。山下陽光(「途中でやめる」の人だ! とテンションあがるくらいには私も権威や名前に弱い)の「おすすめのインターネット教えてください屋さん」だった。作者の山下氏がスマホを一日10分までに制限し、定期的にインターネットチートDAYを設定しているらしく、そのときに最近見聞きしたおもしろいコンテンツをカセットテープレコーダーに吹き込んで教えてほしい、という展示である。

たのしそ〜! とカセットテープの前にしゃがんでみたものの、何も浮かばない。電車移動中も寝る前もあれだけスマホをべたべた撫でているのに? 固まってしまう。ぜんぜん出てこない……。ここ最近のSNSやインターネットって、おもしろいから見ているというより、なんとなくテレビをつけてチャンネルスイッチングするようにタイムラインを更新しているだけだ。
何度も世界の広さと深さに打ちのめされてきたつもりだけど、幼少期は狭いコミュニティでほんの少しだけ「おもしれー女」でいることで心を慰めてきたので、いまだに自分のつまらなさを自覚する瞬間はきーんと染みてくる。結局私は何もレコーダーに吹き込めないまま、ふらふら漂うように会場を後にした。

帰りしなに馬車道駅に展示されている石内都「絹の夢ーsilk threaded memories」を鑑賞した。前回のBankART KAIKOのときに一度通ったのだが、行きは時間に負われて焦っていて、帰りは時間に間に合わず、写真だけ手早く撮って帰ってしまったのだ。
馬車道は関東甲信越から集められた生糸を欧米へ売る生糸貿易の玄関口であった所以で本作が展示されていたらしいが、繭――それを作る蚕には生命観の根源に糸を張られていて、胸がひと回り狭くなる感覚がする。

馬車道駅 横浜トリエンナーレ 児玉雨子

ベタな課外学習だけど、小学校低学年のころに、ひとり一匹、二ヶ月間シャーレの中で蚕を飼育したことがある。今となったら二ヶ月なんて目の前のことを取り組んでいればすぐに過ぎ去ってしまう月日だけど、当時の私には、ひとつの命が生まれて死んでゆくのに充分質量のある期間だった。毎朝一から二枚、先生に配られた桑の葉を与えると、指で簡単に潰せてしまいそうなほそっこい蚕がそれをゆっくり半日かけて食んでゆく。やがてまるまると大きくなった蚕が、繭を作って引きこもる。

おもしろいことに飼育動物は飼い主の特性に似てくることがあって、成長の同級生の蚕も成長が早く、あっという間に羽化してしまった事件があった。しかし蚕蛾は飛ぶことができない。シャーレの中でべったりと翅を広げて死んで行く蛾を眺めながら、うわー、とみんなで気持ち悪がっていた。私もなかなか残酷なのだが、あんなに白くて愛らしかった蚕が、砂みたいな色の翅を持つ小さな怪物になったことにショックを受けた。私の蚕はあんな姿になりませんように、美しい繭のままでいますように、と祈った。

蚕は無事に繭になり、つるんと丸くてかわいらしいと思っていたらあっというまに先生に回収されてしまい、その後の繭はどうなったかは忘れた。でも繭は熱湯で茹でられて、あの蚕は死んだらしいというのはどこからともなく噂が流れて、えー!こわい! と驚いてから、どうしてわざわざ、死ぬための生き物を育てさせるというむごいことをさせるんだ? というしこりを残しながらも蚕の存在を忘れて学校生活に戻った。

食育もそうだけど、何かの犠牲で私たちの快適が成立しているという事実を突きつけられ、上手に消化できないまま「そういうものだから」と受け流しながらなんとなく今に流れ着いたことを「絹の夢」の繭の写真を前にしてダイレクトに想起させられる。私たちは野草であり、同時に蚕にもなりうるし、誰かの繭を使って何かを解決してきたのだ。

横浜トリエンナーレ 児玉雨子

五月十二日(日)
今日は横浜美術館に行く日にしていたのに……頭が割れそう!痛い!
このごろはすべてを太陽フレアのせいにするのが流行っているらしい。
もうなんでもいいから、一刻も早くこの痛みが去ってくれるのを祈る。
小せえ祈り。

五月十四日(火)
結局、おとといはメール返信や原稿チェックなどの簡単な作業だけ済ませて、横になっていた。その前のゴールデンウィークも、法事で京都に行って、祖母の遺品を父と整理してあーだーこーだ言い合ったり黙りこくったりしていたら終わっていたし。結局横トリ三度目の訪問が原稿締切前日になっちゃった。

横浜美術館 横浜トリエンナーレ 児玉雨子

横浜美術館

横浜市西区みなとみらい3丁目4-1
*横浜高速鉄道みなとみらい線「みなとみらい」駅 3番出口直結徒歩3分

久しぶりの横浜美術館に行く。この日は平日の昼だったので、観光客っぽいひとが美術館に多く訪れていた。チケットなしに入れるエリアにも充実した展示があって、さっそく「日々を生きるための手引集」という、iPadで読むことが出来る10本のテクストにかじりついてしまう。
 特に横トリのために書き下ろされたインゴ・ニールマン&エリック・ニードリング「森の民の食事―ヴァルダー・ダイエット」のテクストから未知の世界への扉が開けていた。

ヴァルダー(walder)はドイツのチューリンゲンの森に住む熱心なエコロジストのことで、現代文明に批判的な生活を送り、食べるものもなるべく野生の、環境に影響を与えない雑草などを選んでいるそうだ。特にタンパク源としては、ウジ虫やミミズ、他にはアライグマ、ウシガエル、灰色リスなどの人間が食べるには適さない侵入種を食べるらしい。今回のテクストにはそれらの侵入種を使った料理が七種、プロテインウォーターやエナジードリンクなどの飲み物のレシピも記載されていた。見慣れない生き物の名前とメニュー名に愕然とする。隣では、男性数人が英語で「うわ、全部日本語で読めない」と言っていた。スワイプすれば英語のテクストも読めるよ。と言おうと顔を上げたら、彼らはもう別の展示のほうへ歩き進んでいた。
 

横浜美術館 横浜トリエンナーレ 児玉雨子

もうひとつ、忘れられなさそうな作品があった。
ネオン管で浮かび上がるというレムの『ソラリス』の名言を引用したラファエラ・クリスピーノの作品の隣に聳える、オズキュル・カーによる訥々と心情を吐露する骸骨のアニメーション作品「枝を持つ死人(『夜明け』より)」だ。これはあと二つある楽器を鳴らしているビデオとセットで一つの作品である。我ながら安直で呆れるけれど、いろんなひとの死が思い起こされてその場からしばらく立ち尽くしてしまった。

横浜美術館 横浜トリエンナーレ 児玉雨子

オズキュル・カーの別作品は横浜美術館の入り口にも展示されている。「倒れた木」という、なぎ倒されて息絶えつつある大木のモチーフのアニメーションだ。動物の遺体にたかるように不快な羽音を立ててハエが集っており、こちらもメメント・モリを突きつける作品である。
巨木ですらこうなるのだから、草であるわれわれはどれだけ権威や何かをかき集めて纏おうと、いつかぺしゃぺしゃの枯れ草になってハエすらも集ってくれないさびしい死を迎えるのだろう。だからといって今を投げ捨てないで、わかりあえない他者とすれ違いながら、傷つけられたら小さな声を上げて、同時に傷つけていることを思い出して、生活のはざまで何かを物語り、星のような言葉やうれしかったことをひとつひとつ増やしてゆく。
小せえ一生。
でもいいよね。

横トリのプログラムのひとつに、黄金町周辺で行われている「黄金町バザール2024――世界のすべてがアートでできているわけではない――」もあり、こちらもこの日に行きたかったんだけど……横浜美術館の作品に食らってしまい、またもや間に合わない時間に。十九時すぎ、みなとみらい駅のドトールで写真を見返しながらアイスコーヒーをすすった。

横浜美術館 横浜トリエンナーレ 児玉雨子
横浜美術館 横浜トリエンナーレ 児玉雨子

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