「自戒をこめて」は必要?相互監視社会の中で、自分の感じ、考えたことを表現すること|松田青子エッセイ

「自戒をこめて」は必要?相互監視社会の中で、自分の感じ、考えたことを表現すること|松田青子エッセイ
自分の目で、世界を見たい Vol.4
「自戒をこめて」は必要?相互監視社会の中で、自分の感じ、考えたことを表現すること|松田青子エッセイ
LEARN 2025.02.01
この社会で“当たり前”とされていること。制度や価値観、ブーム、表現にいたるまで、それって本当は“当たり前”なんかじゃなくって、時代や場所、文化…少しでも何かが違えば、きっと存在しなかった。情報が溢れ、強い言葉が支持を集めやすい今だからこそ、少し立ち止まって、それって本当? 誰かの小さな声を押し潰してない? 自分の心の声を無視していない? そんな視点で、世界を見ていきたい。本連載では、作家・翻訳家の松田青子さんが、日常の出来事を掬い上げ、丁寧に分解していきます。第三回は“自戒をこめて”という言葉から「自分の考えや思いを言葉にすること」について考えます。

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松田青子
松田青子
作家・翻訳家

まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。

「自戒をこめて」と言い訳をしなくても

目にするたびにもやついてしまう言葉の一つに、「自戒をこめて」がある。

SNSなどで何かよくない状況や問題に対して自分の考えを書き込んだり、批判したりしている人の投稿の最後がこの一言で結ばれていると、それいらないのに、と思ってしまう

物事に問題意識を持つ人ほど、じゃあ自分はいつも正しい行いをできているのか、と自戒してしまう傾向があるだろうし、それは今の社会の雰囲気を考えると、極めて良心的な心の動き方だ。

前回書いた全体を見る」につながることでもある。全体と、自分自身を同時に意識し、問題だらけの社会の中で個人としてできることをしながら、生活を営んでいくことは大切だ。

ただ、「自戒をこめて」は、今のSNSにおいて、まるでエクスキューズのように使われていることが気になる。最後にこれをつけておけば安心だろう、というような。

そういう自分はどうなんだと周囲に問われたり、自分の言葉を誤解したり、不快に思ったりする人に対する安全策のように思えるのだ。

周りの目を気にして、突っ込まれないように書き込む癖が日常化している人も多いように見える。あと、自分は「定型」になっているものに違和感を覚える性格なので、フレーズと化した「自戒をこめて」が好きじゃないところもある。

本来、人それぞれの考えや言葉は、「自戒をこめて」という言葉で言い訳しながら、語られなくてはいけないものではないはずだ。

そう思った、そう感じたと、言いっぱなしにできないプレッシャーが、今のSNSにはある。

SNS以外でも、どう見られるか、どう思われるかを気にするのは一緒だけれど、実際の会話では、SNSで可能なようには、言い訳し続けることはできない

相手との会話がどんどん先に流れていくし、言いっぱなしにならざるを得ない。それはある程度誤解が生まれることも含めて、双方がわかっている。よっぽどの問題発言や差別発言でない限りは。

会話をしている相手が誤解されることを恐れて何度も言い訳をしたり、言い換えばかりしていたら、そんな会話は面白くないし、嫌になってしまうだろう。それなのに、SNSだと一つの投稿だけで、あの人ってこういう人なんだ、と決めつけられる

SNSでその監視されるような雰囲気が強くなってからか、あることについての投稿を誰かがした後に、その文章で誤解されそうな部分を次の投稿で言い訳したり補強したりし、さらにその言い訳と補強が連なっていく、という現象をよく目にするようになった。それも、本当に言いたかったことは、最初の投稿だけだろう。

日常の小さな出来事や、喜びをもっと大切にしていい

考えれば考えるほど、気にすれば気にするほど、文章は長くなる。考えるべきこと、気にしなくてはいけないことはたくさんある。だからといって、その考えるべきこと、気にしなくてはいけないことを、自分がちゃんと考えていて、気にしていることを常に表明しないといけない訳はないし、そんなことは不可能だ。

私も本来は考えすぎたり、気にしすぎたりするタイプで、エッセイを書く時などは、できるだけ誤解されずに伝わるように文章を考えるのだけど、小説だとそうはいかない

誰にも誤解されないように、言い訳や説明を加え続けると、それは小説ではなくなってしまう。誤解される前提で、伝わらない前提で、それでも恐れずに書かないといけないのが小説だ

エッセイだって、誤解されないように書くのには限界がある。そうして、実際、自分の本の感想や書評を読むと、あ、違うんだけどな、と思うことも多い。仕事柄、周囲にどう思われてもいい、のスタンスを心の片隅に持たないと続けられないところもある

あと、インタビューなどを受けていると、インタビュー原稿を見せてもらった時に、こんなにも私の話は相手に伝わっていないのか、と驚く。真逆の意味になっていることさえある。

そういった経験の数々から、自分の言葉は細心の注意を払ったところで案外伝わらないものだ、という諦念の気持ちに至ったのだけど、それぐらいでいいのかもしれない。

コロナ禍の頃だったか、英語圏の人が、「日常の小さな出来事や喜びを投稿する際に、今世の中が大変な時なのに、などと言い訳を書かなくていいのに」と書いているのを読んだ。

世界的に深刻な問題が次々と起こり、解決されないままのことも多いなか、自分の生活を語ること自体に罪悪感を覚えてしまうことは私もある

あまりにも自分が無力で嫌になってしまうけれど、同時に、自分の考えや思いや生活を、「自戒をこめて」と卑下せずに大切にすることも重要ではないだろうか。まずは自分自身を維持しなければはじまらないのだから。

text_Aoko Matsuda illustration_Hashimotochan Edit_Hinako Hase

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