信じられる映画との出会いに導かれて。『HAPPYEND』プロデューサー・増渕愛子|エンドロールはきらめいて 〜えいがをつくるひと〜 #15
毎回1人ずつ、映画と生きるプロフェッショナルにインタビューしていくこのコーナー。今回のゲストは現在公開中の映画『HAPPYEND』でプロデューサーを務めた増渕愛子さん。東京とNYを行き来しながら多岐に渡る仕事をこなす増渕さんに、これまでのキャリアや初の長編フィクション映画プロデュースを経ての実感を伺いました。聞き手は、短編映画の上映企画「GINZAZA」で増渕さんと協働した井戸沼紀美さん。
下町からNYへ、キュレーターからプロデューサーへ
――愛子は今、プロデューサーやキュレーター、通訳者や翻訳者として、さまざまな形で映画に関わっているけれど、元々どんなふうにして映画を好きになったの?
小さい頃から母親に連れられて沢山の映画を観ていたことがきっかけかな。東京の下町から銀座や有楽町あたりの映画館へ行って、ハリウッド映画の「先行レイトショー」を観たり、幼な心にも「絶対にこれは子供向けの映画じゃないよね」と思うような映画を観たり(笑)。学校を休んでまで、一緒に映画を観に行ったこともありました。
当時はまだ自分が「映画好き」という感覚はなかったんだけど、その後、TSUTAYAの棚に並んでいるDVDを端から端まで借りるのがすごく好きになって。
――じゃあ、物心つく頃には「映画に関わる仕事に就きたい」と思っていた?
ううん、そういうことは全然考えていなかった。でも、間接的に影響を受けた出来事はあったかな。中学2年生くらいの時、ちょっと荒れているクラスにいたんだけど、ものすごく映画好きな担任の先生が「じゃあ皆で演劇をやろう」と提案してくれて。実際にその演劇を通して、クラスメイトがお互いへの理解を深め合えたようなことがあったんだよね。そのクラスにいた同級生は、結果的にアートの世界に行った人が多くて。私も間接的に影響を受けた部分があると思う。
より深く映画について考え始めるようになったのは、大学2年でNY大学に編入してから。自分は当時、文化人類学を専攻していたんだけど、気がついたら周りの友達がみんな映画学科の人達で。
彼らが作った作品を観てみたくて、親友2人と家で上映会を始めてみたら、最初は10人ぐらいの集まりだったのが、続けていくうちに周りの友達も集まり始めて。ついに家では収まりきらなくなって、大学のそばのカフェで上映会を開くようになった。
――その頃から既に、キュレーターやプログラマーのようなことをしていたんだね。
元々は小説や詩を書く作家になりたいと思っていたから、出版関係の仕事に就きたいと思っていたんだけどね! MoMA(ニューヨーク近代美術館)のインターンシップに応募する時、希望部署を3つ書かなきゃいけなくて。第一希望を出版、第二希望を教育部、第三希望が思いつかないからとりあえず映画って入れたら、備考欄に書いたカフェでの上映会のことだけが先方の目に引っかかったみたいで、映画部に入ることになった(笑)。
でも実際にインターンしてみたら、好きな映画や観るべきだと思う映画を観まくって、熱を込めて文章を書いたり作品を紹介して、お客さんと一緒に時間を共有できるキュレーターって仕事は、なんて最高なんだろうと気がついたんだよね。
――導かれるようにしてキュレーターの仕事に出会ったんだね。
うん。それで大学卒業後は、映画のプログラマーやキュレーターとしてまず仕事を始めました。私はバンドをやっていたから、そのバンドを成功させるためにNYに残りたい、残るためにはビザを取得しなければならないということで、当時すごく一生懸命仕事探しをして。結果、自然史博物館で「マーガレット・ミード映画祭」というアメリカで最も古い国際ドキュメンタリー映画祭のお手伝いをしたり、MoMAの映画祭に関わったりした後、ジャパンソサエティという機関で5年ぐらい働きました。計8〜10年くらいはNYの文化機関に所属していたのかな。
でも10年目が見えてきた頃に、組織の中で働くことに対しての疑問も段々と感じ始めて。たまたまその時期、グリーンカード(アメリカでの永住権を証明するカード)を取得できたこともあって、シカゴのアートインスティテュートという大学院で視覚文化や批評文化を学ぶ学科の修士課程に進むことにしたんです。
大学院に行っている間もフリーで仕事はしていたけど、それでもフルタイムで仕事しながら夜にバンドをやっていた日々よりは時間ができて。そのことがきっかけで、『The Chicken』(2020年)という短編映画に初めてプロデューサーとして参加することになりました。監督の空音央とはもともと交友があったので、最初は「手伝うよ」というくらいの温度感で。
『The Chicken』予告編。志賀直哉の小説をベースにした短編映画で「ロカルノ国際映画祭」など世界の映画祭で評価された
人生のあらゆる経験が生きてくるプロデューサー業
――「プロデューサー」と一言で聞くと、具体的な仕事内容があまり想像できない人も多いかなと思うのだけど。実際にはどんな仕事をしているの?
自分にとっては『HAPPYEND』(2024年)が長編フィクション映画の初プロデュース作だから、私も一般的な流れをわかっていないかもしれないけど。企画書を書いたり予算を集めたりというロジスティックな仕事もありながら、実感としては、日々出てくる仕事に対してそのつど反応している感覚が強かったです。
『HAPPYEND』予告編。XX年後の日本を舞台に「友情の危うさ」を描いた青春映画
これまでの経験が自分を助けてくれるような感覚もありました。決められた予算があって、メンバーを集めて、スケジュールを作って……という工程は映画祭を回していくことにも似ていたし、他にもバンドをやっていた自分だからこその映画の観方があったり、通訳や翻訳の経験があるからこそ手伝える仕事があったり。今回に関して言えば、脚本の書き直しにも立ち会ったから、作家志望だった自分が生きてくるような感覚もありました。いろいろやってきて良かったな、と思えるというか。
仕事内容が多岐に渡る分、いろんなタイプのプロデューサーがいることをすごく実感します。『HAPPYEND』のプロデューサーチーム(アルバート・トーレン、エリック・ニアリ、アレックス・ロー、アンソニー・チェン)も、それぞれ得意不得意がバラバラで、だからこそできたことがあるんじゃないかなと。
――それぞれが良い部分を補え合える関係は素敵だなと思います。ちなみに『HAPPYEND』の制作はいつ頃からスタートしたの?
まず、監督である音央の中には『HAPPYEND』のタネのようなものが8年前ぐらい前からありました。でも、長編を作るためには監督の技量を示さないと協力者が集まらない。だから、まず短編映画の『The Chicken』を撮って「ちゃんと映画が撮れる人です」ということを証明したような部分があって。
そこからプロデューサーが集まって、それぞれがNYから東京へ拠点を移したのが2020年頃。初めは2年で映画を撮ろうと考えていたんだけど、気づいたら4年経って、今やっと公開されているという感じです。
――完成までの時間が2年延びたのには、どんな理由が……?
理由はいろいろあるけれど、映画制作の座組みを決めるのに苦戦した部分があったかな。初めは日本の製作会社と映画を作る可能性を模索したんだけど、まだ無名な監督の第一長編に対して大きな額の予算を出すのはリスクのある話だから、乗ってくれる人が少なくて。
逆にアメリカだと「こんなに小さい予算でこれだけの物語ができると思うの?」と聞かれるし、すごく難しかったんだけど。音央が映画で実現したいことを考えた結果、『HAPPYEND』はアメリカのインディペンデント映画のように して作ろうという結論に至りました。
――「アメリカのインディペンデント映画」として映画を作ると決めてから、どんなふうに映画制作が始まっていったのかが気になる。
最初は国際映画祭の企画マーケットみたいなものにどんどん応募していったんだけど、今でも当時の申請リストを見返して笑うくらい落ちまくってた(笑)。他には、映像会社にもコンタクトを取っていたかな。そういうことの地道な積み重ねで、だんだんと協力者が増えていったり、企画が通るようになったりして。
長い準備期間中、これまでにもプロデューサー経験のあるエリックが「一本目の映画こそ、やりたいことを全部やって、こういうことができるって見せなきゃいけないんじゃないか」「良い方法があるはずだ」と私や音央をずっと後押ししてくれたことは精神的な支えになりました。
エリック・ニアリが過去にプロデューサーを務めた映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』(2017年)予告編
映画作りは超大変!それでも続けられた訳
――『HAPPYEND』は、本当に良いチームで撮られたんだろうなというのが伝わってくるような映画だった。
『HAPPYEND』は友情の話だけど、監督含め、プロデューサーチームも本当に仲が良い友達みたいなんだよね。だから完成した映画だなっていうのは毎日思う。
これは映画祭で出会った尊敬している東南アジアの女性プロデューサー達にも言われたことなんだけど。「一緒に仕事する人は、友達になれる人にした方が良い」ということを私も強く感じます。
プロデューサーの仕事が他と違うのは、一週間とか、一年で終わる仕事じゃないということ。映画が完成するまでの期間も、上映される期間も、それこそ権利のことなんかも含めて、映画が生き続ける間はずっと作品にコミットし続けないといけない。
今回初めて本格的にプロデューサー業をやってみて「映画を作るの、超大変じゃん」って思ってる(笑)。でもだからこそ、心から信じられる企画を選ぶ必要があるんだと思う。
――ここまで長く準備してきた映画が公開されるのはどんな気持ち?
不思議な気持ち!私はこの映画を作るためだけに日本に戻ってきて、その先の人生のプランを全く立てていなかったんです。だから、ここまですごく長かったけど、「もうこの日が来ちゃうんだ」って感覚もある。
でも、ここまでの期間、超大変!と思うことはあっても、やめようと思ったことは一度もなかった。作品のことを信じているし、仲の良い友達とやっているから楽しいし。
そして映画に関することだけでなく、自分が考えていることを仲間と共有できることも安心感に繋がっています。例えば今起きているパレスチナ人の虐殺を止めるためになんとかしたいと思っていることも、チームの仲間に共有していて。
映画以前に友達であること、こういうことが話し合える関係を築いてきたことは、自分にとってとても重要なことでした。大変な時もあるけれど、思いを共有できる仲間がいることは幸運だなと思います。