食体験からその人の魅力を紐解く。小説家・小川 糸の〈味の履歴書〉
その人の食体験を知れば、その人の魅力がもっと見える。小川糸さんの〈味の履歴書〉を紹介します。
食べることは生きること。それが小説の根っこにある。
小川糸さんの小説は、彼女を大切に育んだ祖母や母のごはんの味がする。穏やかでやさしく、やがて、じんわり、心の滋養となる。
両親が共働きだったので、子どもの頃はもっぱら祖母の手料理がメインだった。「祖母はお寺の出身で、がんもどきと大根の煮物とか、野菜の天ぷらといった精進料理が得意でした」。料理上手で、実家の近所のお寺で何か行事があるたび、駆り出されていた。
パン食への憧れ、都会への密かな憧れ。
朝食はいつもご飯とお味噌汁。「パン食に憧れてました」。おやつも祖母が用意してくれるのだが、お葬式でもらってきたお饅頭の天ぷらとか、地味なものだった。今ならその価値もわかるのだが、もっと華やかなものを食べてみたかった。「友達の家はお母さんがケーキを用意してくれるのに、とわがままを言ったら、ある日、ストーブにフライパンを置いてホットケーキを焼いてくれたんです。それがほんとうにうれしかった」
誕生日になると、祖母はよくコーンスープを作ってくれた。缶詰のコーンとだしを混ぜて卵でとじたもので、すごくおいしかったのを覚えている。特別なものではなかったが、地の山菜やきのこを使ったりと、心を尽くしてくれていた。
祖母と母が、笹の葉が出る頃になると毎年必ず作ってくれたのが笹巻き。笹の葉でもち米を三角形にくるんで茹でたものだ。「笹の葉を外して、きなこをまぶして食べるんですけど、これがとても好きでした。母も、そういうものはマメに作ってくれていました」。笹巻きのほかにも草団子など、山形ならではのものをちゃんと食べさせてくれていた。贅沢だったと思う。
それから、芋煮。秋冬になると、スーパーでも芋煮セットが売り出され、それを持って河原へ。「ごく普通のことだったんだけど、今思うと、結構おもしろかったなと思います」
小学校高学年になると、家の近くに〈ケンタッキーフライドチキン〉ができた。うれしくて、開店早々、母と行った。味よりも、〈ケンタッキー〉で食べるという行為が、都会への憧れを満たすものだった。「田舎に対して、後ろめたさみたいなものもあったのかなと」。中学の頃からぽつぽつでき始めたコンビニにも同様の思いがあった。
近所にあった〈パティスリー コウシロウ〉(*1)という洋菓子店も、都会の香りを運んでくれた一軒だった。東京の〈小川軒〉で修業したパティシエが、山形に本格的なフランス菓子を根づかせていたのである。「山形には当時、そんな文化がなかったと思うんです。本物のフランス菓子を日常的に食べられたことはすごくよかった」。近所にうなぎの名店〈あげつま〉(*2)もあって、帰省すると祖母が連れて行ってくれた。どちらも、今も帰るたび立ち寄る。
愛すべき母の手料理。そして料理に目覚める。
母の料理の思い出は印象深い。とくに、お弁当がユニークだった。おかずを詰めていて隙間が空くと、そこに市販の小さなチョコケーキをポンと入れていた。「よくいえばユニーク(笑)」。行事のときはよく巻き寿司を作ってくれたが、巻きすで巻くのではなく、新聞の広告で巻いていた。「具だくさんで、結構、手間がかかってたと思うんです。いまだに太巻きは好きですね」。運動会には、何日も前からいい栗を探して栗ご飯を作ってくれた。「母が亡くなって、自分で栗をむくようになったんですけど、こんな大変なことを忙しいのによくやってくれてたなと」。今さらながら、感謝である。
自分で料理を作るようになったのは、高校生ぐらいから。「初めて買った料理本は『おふくろの味』。当時つき合ってた男の子にお弁当を作りたくて」。その本はとても役に立ったし、いまだに活用している。彼のために作ったお弁当は当然ながら力作で、とても喜んでくれたという。なんと、受験の当日にも作ってあげたそうな。
バレンタインデーには、ハートのケーキなんかを焼いた。「ただ、勉強しないでお菓子作りをすると母に咎められるので、自分の部屋にオーブンを持ち込んで内緒で作ってました」
辛かったどん底時代を経て、やっと自著が世の中に出た。
大学は東京へ。飲食店でアルバイトをしながら、料理も教わった。山形では家族以外の大人とつき合うことがほとんどなかったので、バイト先でいろんな人と知り合えて世界が広がった。目が開けた感じだった。
学を卒業して「物語を書く人になりたくて」出版関係の会社に入社。ところが関わった雑誌が2号で廃刊、リストラされる。人の下で働くことが心底イヤになった。人生は不思議なものだ。作家への道はそこから開けるのだから。「本気で何か書きたいと思ったのはその時でした」。固い決意でスタートしたものの、10年ぐらいは辛い時期が続く。書いてみては出版社に持っていくのだが、いっこうに採用されず。賞に応募もしたが認められず。「どん底でした」
当時、結婚していたこともあって、客人が多く、料理する機会が多かった。「料理って何なんだろう、食べるってどういうことなんだろう、と真剣に考えた時期でもありました。それが『食堂かたつむり』にも繋がっているので、ムダではなかったのかなと思っています」
『食堂かたつむり』は、これがダメなら、もう書くのはやめようと決めて挑んだものだった。
「最後だから、一番身近な食を題材にして小説を書こうと思って」。賞に応募したが、賞は取れなかった。「でも、編集の方がひとりだけ手を挙げてくださって、そこから1年ぐらいかけて編集し直して、やっと形に。ほんとうにギリギリのところで繋がったんです」。10年のどん底は今思い出しても精神的にきつくなるほど。「誰も読むアテのない物語を書くのは辛かった」。お祝いの集まりは、映画化の際に料理監修・制作を担当した「オカズデザイン」が営む器料理店〈カモシカ〉(*3)で。
小川さんの作品に食は欠かせない。「食べることを見つめるって、生きることを考えることでもあると思うので、何かしらの形で、常に作品に登場してくると思います」
ベルリンを通過して超シンプルな食生活へ。
デビューしたあと、ベルリンに通うようになって、最初は夏だけ、そのあと3年ぐらい住む。「食との距離感が変わったように思います。よくドイツ人が言うんですけど、日本人はどこかに旅行することが決まったら、そこで何を食べようと考える。でも、ドイツ人はそこでどんな体験をしようかと考えるって。確かに、それまで、自分も頭の中は食べ物でいっぱいだったなと思いました。食べ物に向けるエネルギーをほかのところに向けると、別のことが見えてくるのではないかな、と」
ベルリンは内陸なので鮮度のよい魚介は少ないが、その代わり、ハム、ソーセージのおいしさは格別だ。「春はホワイトアスパラガスが素晴らしい。日本の筍と同じ感覚です。茹でたてに薄いハムをのせるだけで、春のご馳走になります」。ホワイトアスパラの太さは特別で、小川さんは2、3本で十分という。
「お客様を招いても招かれても、ハムを切って、パンとチーズとワインで十分なんです。いろいろ作らなくては、という呪縛から自由になれたかな」
そして今。日本に戻ってきて、長野の山小屋に住んでいるのだが、食文化がドイツと近いという。おいしい〈ソーセージハム男〉(*4)という店もあるし、おいしいパンやチーズもある。山菜やきのこも採れるから、山形とも似ている。だから、長野の食はすんなりなじむ。
「圧倒的に野菜がおいしいのも、長野ならでは。道の駅や産直で買った野菜を、蒸したり焼いたりして、塩とオリーブオイルをかけるだけでもう十分おいしくて。今はストーブの前でごはんを食べるだけで幸せです」