【柴崎友香さんインタビュー】人間も社会も混沌とした、わからないものでいい | 『あらゆることは今起こる』| きょうは、本を読みたいな #10

CULTURE 2024.07.09

数時間、ときにもっと長い時間、一つのものに向き合い、その世界へと深く潜っていく。スマホで得られる情報もあるかもしれないけれど、本を長く、ゆっくり読んで考えないとたどりつけない視点や自分がある。たまにはスマホは隣の部屋にでも置いといて、静かにゆったり本を味わいましょう、本は心のデトックス。第10回は作家・柴崎友香さんの新刊『あらゆることは今起こる』について著者インタビューをしました。

インタビューは下北沢の「本屋B&B」にて。
インタビューは下北沢の「本屋B&B」にて。

発達障害の診断を受けた体験を俯瞰して書く

男女7人が集まった京都でのある一夜を、さまざまな視点で見つめるデビュー作『きょうのできごと』、誰かが生きていたところで今生きていることを実感する『わたしがいなかった街で』など、場所、時間、記憶の繋がりを気づかせ、今ここにいる自分が果てしない何かとひと続きであると体感させてくれる柴崎友香さんの小説。読むたびに、途方もなく遠くに連れて行かれるのはなぜなのか。その理由を少しだけ、この『あらゆることは今起こる』に見つけることができた。それは、

現在も過去も未来も等価である「今」であり、複数の時間が体内に脳内に併走していて、常に重なり合う時間を生きている感じなのだと思う。(P279)

というこの感覚と、種類は違うけれど似たものを、柴崎作品より受け取ってきたような気がするからだろう。

この本では、柴崎さんが40代のときにADHD(一般的には「注意欠如・多動症」と呼ばれる)の診断を受け、それに至るまでの紆余曲折や、自身の症状とそれに伴う困りごと、診断後の変化などについて丁寧に綴っている。
「診断を受ける前に、職業柄もあって何かの形でこの経験を書きたいとは思っていました。ただ、発達障害やADHDは人ぞれぞれの特性が非常に多様であり、その人の他の要因との組み合わせで現れ方も一人ひとり異なる。私の症状が代表的なものではないし、わからないところがたくさんある。それをどう伝えたらいいのか、とても難しいと考えていました。というのも、私自身、ADHDの特性や困りごとを語ろうとすると、片付けられない、遅刻が多いなど、よくある失敗談になって小ネタの集積みたいになったり、自虐になったりする。あるいは『乗り越えて頑張った』『そういう特性だから逆に才能があった』というような感動話にまとめられることもある。そうではないべつの伝え方がないだろうかと模索していました。診断を通して気づいたことを、発達障害の当事者だけではない、もっと広く社会を見る視点で書いてみたいと思っていたんです」
どのような形で伝えられるかを考えていたときに、医学書院の「ケアをひらく」シリーズのうちのひとつ、横道誠著『みんな水の中 「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』を手に取った。そこに「ASD(自閉スペクトラム症)の人の自伝的な本は何冊も出ているけれど、ADHDの人のそれはあまり見かけない」と書かれていたのを読み、だったら自分が書いてみよう、これまでときどき読んできたこのシリーズなら、いろんな視点で見た書き方ができ、「困難とその対処」にとどまらずに幅広い人に読んでもらえるかもしれない。そう考えて、シリーズをずっと担当してきた医学書院の編集者、白石正明さんに連絡。今まであまりしたことのない書き下ろしでまとめることになった。

あらゆることは今起こる

その道のプロに聞くことの重要性から病院へ

本の前半は、自分が「他の人と違う」ことで困りごとに直面、追い詰められる一方、そこから診断を受けることに前向きになり、実際にどう専門医にたどりついたのかが語られる。
柴崎さんは幼少期からずっと、他の人ができているいくつかのことが、自分にはできない、できていないことに気づいていたという。
「本にも書きましたが、まるで自分だけがパラレルワールドに移動したように、みんなが知っていることを自分だけが知らないという状況がたびたび起きました。特に小学校高学年からは女子同士のコミュニケーションが高度になっていくので、誰かの誕生日にプレゼントを持っていくとか、次に会ったときにお返しを渡すとか、他の人がなんとなくできるようになっていく『こういう場合はこうする』ということがわからないことがしばしばあり……。それで『なぜ一人だけ……』という具合に周りの人とのずれが生じているらしいと感じることが多々ありました。大学生になってからも、いつも授業は興味を持って聞いているのに、休講になったことを知らず、教室に行ったら誰もいない、ということもよくありました。あ、また話を聞いてなかってんやろな、とは思うんですけど、そういうことが繰り返し起こるので、どういうふうに気をつければいいのかと困ってはいました」
失くし物や忘れ物が多く、約束の日時を間違えたり、乗るべき電車に乗り遅れたり。コミュニケーションでのずれが大きく、人間関係の維持が難しい。そして、寝ても寝ても眠く、気づいたら寝ているため、一日にできることがとても少ないという問題も抱えていた。
2001年頃にサリ・ソルデン著 ニキ・リンコ訳『片づけられない女たち』(WAVE出版)を読んで、自分はADHDではないかと気づいてはいた。しかし助けを求めるなど、他者に能動的にアプローチするのが難しく、少ない専門医を訪ねて受診するのはハードルが高すぎたため、約20年間は自分で関連の本を読んだり情報収集して対処していた。突破口となったのが、2017年にTwitter(現X)で「合う靴がない」と悩んでいたが正確なサイズを測りに行ったという人の投稿を読んだこと。それが自分の靴の悩みとかなり似ていたので、そのアカウントで紹介されていた店でサイズを測ってみると、今まで履いていた靴が足に全然合っていなかったことが判明した。
「靴のエピソードは、ADHDの診断にたどり着くまでの長い段階のうちの一つでした。合う靴を見つけたことで、やはりその道のプロ、つまり専門家に客観的に判断してもらうのは重要だなと思ったんです。たとえば、わたしは身長が低いのもあって服がなかなか似合わないという悩みがあったのが、プロに骨格診断や、イエベ春とかブルベ夏とかのパーソナルカラー診断の解説をしてもらうと、似合う形や着方がわかってきた。今まで自己診断や雑誌で読んで思い込んでいたことが、実はそうではなかった場合もありました。自分についてわかっていなかったことを知るのが面白かったし、小さなことから練習というか、一つずつ経験を積めるようになりました」
結果、自宅から通いやすい発達障害の専門外来がある病院にたどり着き、診断を受けることに。そして2021年9月にADHDであり、多少ASD要素もあると診断されるに至った。今は不注意に効果があるとされるコンサータという薬を処方され、とにかく常に眠かった状態から脱し、起きていられるようになった。
「映画を最初から最後まで観られるようになったのが、本当に大きい。以前だとゴダール作品は3回くらい観ないと全体像がつかめませんでした。この間、ジム・ジャームッシュ監督の『デッドマン』を4Kリマスターで再度観ていたら、昔観た記憶はすごくあるのにしっかり覚えていたのは最初の5分だけで、『あと全部寝てたんや!』と愕然としました」

柴崎さん目元

“普通”枠のハードルは上がり、求められるものも増加

本の後半は、診断を受けた柴崎さんがその体験を通して「“普通”とは何か」や、「今の社会で困りごとを抱えている人が多いのはなぜか」などの考察を、多方向から深めていく。そのなかで、人と違うことがネガティブに捉えられ、横並びを求められるこの社会のしんどさについても触れていく。
「ファッションの話でいうと、ファッションは着たい服と似合う服、自分の好みと人からの見られ方、体型などの条件から自分は何をどうするのかと調整することになるので、面白いし意外と重要。先ほど話した専門家に診断、解説してもらう体験には、たくさんの示唆がありました。『これが似合う』とわかったあともその通りにするわけではなく、わたしは『自分が好きな服を着たい』気持ちが強いので、そのために自分なりにどう工夫すればいいかがわかってきた感じです。背が低いことで標準サイズからずっとはずれていて、服の作り手が想定している見え方にならない。それは“標準”や“普通”ではないという問題を考える要因の一つになりました」
ADHD の特性もあって“普通”はできるはずとされていることが難しい。人と違うことは自分にとってはネガティブなことではないが、現実的に困ることがあり、自分はなぜできないのか、という悩みが生じがちだ。学校生活のいろんな場面で難しさを感じていた柴崎さんは、発達障害は人が同時に同じことを求められる状況でわかりやすく現れるという。
「全員が同じ時間に登校し同じ勉強をするとか、ある年齢になれば就職して結婚してするものとか、同じことを同じ時間や時期にすることを前提に社会のいろんな仕組みが作られていて、しかも誰でも努力すればできるはずという圧の強い中で生きているなと思います。わたしにも他の人ができることができない自分はダメな人間だという気持ちはずっとありました。その前提では、自分はもちろん他人に対しても、できないとダメという意識が強くなってしまうんじゃないでしょうか」
出る杭は打たれ、できない人は弾かれるという、許容範囲が狭くやさしくない社会。そんな同調圧力の強いなかでは、多様な人を受け入れられず、どんどん排他的になるのではないだろうか。
「ここ数年、発達障害という言葉をよく見聞きします。理由を考えてみると、社会の側の“普通”枠のハードルが高くなって、求められていることが増えているからかもしれません。仕事や生活において、あらゆることがミスなくできるのが“普通”であり、しかも全部一人でできるのが能力が高い人と見なされる。よく耳にする『人に迷惑をかけない』というのも、生きていれば他者との関係において多少そういうことは生じるはずなのに、『迷惑』とは具体的に何かを示されないまま、とにかく人に頼らずすべて自ら引き受けてこなしていかなければならないような圧が強まり、しんどさを感じている人が多い。それで発達障害という言葉を耳にしたり本を読んだりして、『自分も当てはまるのかも』と思う人が増えているのかなと思います」
他者に頼らず何事も一人で成し遂げるのが当然の社会では、できていないと何も言えなくなる。それはさらに今蔓延している自己責任論にもつながっていく。
「ADHDやその傾向にある人は、元々は初対面でも人見知りをせずにパッと話せる人が多いといわれています。ところが、幼少期に思いついて言ったことで困った展開になり、周囲から頭ごなしに叱られるなど、負の経験を重ねると、育つにつれて言っても怒られるだけだから言わないでおこうと、何も言えなくなってしまう人も多い。その要因だけではないのですが、わたしにもそういう特性があって、たとえば先日スーパーマーケットで牛乳を買いたかったのですが、ちょうど店員の人が品出し中で取れなくて。今までならそこで店員さんに『取ってください』とは絶対言えませんでした。店内をうろうろして戻ってみたり、あきらめて別の店で買ったり。けれど先日、言ってみたらいいのかもと思い直して、何分か経ってから『あの……すみません、その上の段の……』と話しかけたら、『あ、はい!どうぞ!』と取ってもらえて。自分にはできないと思っていたことが、一つできました。そうやって小さい経験を積み重ねていくと、また別のことも言えるようになるかもしれない。年齢に関係なく、今からでもできることはあるなと思いました。かといってそれをやらなければいけないわけではないとも思います」

柴崎さん全体2

いろいろなものがぐにゃぐにゃした可変的な社会

Ⅲの第6章「わからないこととわかること」の現代アートについての話で、「わかる」か「わからない」かは問題と答えというセットになっているわけではないし、「わかる」はひとつの点や線ではない、と書かれている。これは今の社会を生きる上で、心に留めておきたい言葉だ。
「発達障害はとても複雑なもので、まだわかっていないこともたくさんある。今はそれに名前をつけて、こういうことではないかと考えられているのであって、名称や解説も少しずつ変わってきています。でも発達障害やADHDの話で難しいと思うのは、『チェックリストに当てはまったらこれ』という単純化された情報が多くなっていたり、『○○はこういうもの』ときちんとわからなければと思うあまり性急な『わかりやすさ』が求められがちだったりすることです。何でもすでに決まっていて答えがある、それをわからないといけない、という刷り込みが、わたしたちの社会にはかなりあります。何もかも詳細に理解して答えを出さないといけないとなると、人間は考え続けるのがしんどくなるもの。入ってくる情報も多いし、明確な答えをすぐに出すことや『正解』を教えてもらうのがいい、という方向に進んでしまっているのかなと。まずは眼の前にあること、そこにいる人の話していることを、そういうこともあるのかと、受け止めたり様子を見たりする 余裕を持つのが難しくなっているのかもしれません」
いろいろと思い巡らせるのが好きな柴崎さんは、世の中の気になること、説明できないことを、頭の片隅でぼんやりと何十年も保留状態にしている。それが何かのきっかけで突然、「あれはそうだったのか」とわかるときがある。それは正解とか答えではなく、自分が自分として「わかった」ということだ。
「わたしにとって小説とはそういうもの。読んでいて『自分も経験があるからわかる』と共感する部分や、『ここが面白い』『なるほど』と思うことはもちろんありますが、時間が経ってから何かの拍子に『あのとき読んだのはこういうことか』とか、再読したときに『わかったつもりやったけど全然わかってなかった』と気づくこともある。本や小説に書かれていることにはすぐに答えを出す必要はないし、頭の中に保留をたくさん作ってくれるものです」
それはⅣの第1章「複数の時間、並行世界、現在の混沌」の「世界は混沌だととらえていて、混沌を愛しているのだと思う」(P230)という言葉ともつながる。物事に対してコストパフォーマンスやファストを追求し、無駄を省いて単純化、最適化していくと、それ以外の余白の部分や枠にはまらないもの、つまり文化をも含めて淘汰することになり、人間は疲弊してしまう。生きることは混沌であり、多種多様な人がいてこそ世界が成り立っているはずだ。
「たとえば今の時間の感覚は、過去、現在、未来が一方向に並んでいて、1日、1週間、1年とか、1時間の60分の1が1分とか、それが正しい目盛りであり、最初から決まっていて、それに合わせて生活するのが当たり前のようにわたしたちは生きています。でもそれはたかだかこの何百年くらいの感覚。たとえば一週間は7日間で日曜日に休むというのも日本では明治以降に決まったことだから、約200年前の人は全然違う時間感覚で生きていたんじゃないでしょうか。そう考えると、そもそも物事はぐにゃぐにゃしていて可変的なはずなのに、現代ははじめからきっちり決まっているという思い込みが強すぎる。発達障害の特性のように、社会はさまざまに入り混じったグラデーション状態であるもの。小説をはじめ、音楽や他のジャンルの文化は、きっちりした目盛りで区切られていない世界があると信じさせてくれます」

体内に複数の時間が流れている人が書く小説の面白さ

幼少期からみんなが知っていることを自分だけが知らないという状況が起きて、パラレルワールドに移動したようだったと言っていた柴崎さん。それと同時に、誰かと会話していると前置きなくどんどん話が飛ぶことが非常に多いという自覚があった。他者から見るとすごく離れていても、全然関係のないところに飛んでいるわけではない、と思う。途中でべつのことを思いつくだけで話はつながっているつもり。このように頭の中でいつも複数のことを思いついているという。
「これはADHDの人、特に女性に多いらしいのですが、多動がよくイメージされるように椅子にじっと座っていられないとか、教室のなかをうろうろするとかの形で出るのではなく、人と話していてもすぐ別のことに気を取られるとか、すごくよく喋るという行動に現れやすい。わたしもそうで、興味のある話題について次々と喋り続けてしまうんです。そのことについて、美学者の伊藤亜紗さんから『話が飛ぶ人はその人の体内に複数の時間が流れているのだと思う』と言われました。自分のなかに並行していろいろなことが浮かんでくるのは、確かにそういう感じだと思って、そのことはこの状態を考えるのにすごく大きなヒントになりました」
小説『きょうのできごと』や『その街の今は』、『わたしがいなかった街で』などに、この感覚は如実に表れている。ひとりの人のなかや同じ場所にあらゆる時間が流れ、その場所で起こったさまざまな時代の出来事を、複数の人の視点や記憶と重ね合わせる。これは柴崎さんの小説の中心にあるもの。『あらゆることは今起こる』は、柴崎作品の解説テキストのようにも読める。
「先ほどのきっちりした時間の話と対になっているかもしれませんが、時間や場所で記憶が積み重なっているというのは、動物的な感覚に似ています。たぶん動物は、何年前のいつどこで何があったという記憶の仕方ではなく、前にここを通ったときに怖い目に遭ったとか、食べ物があったとか、そういう時間の感覚で体内に記憶が蓄積されているように想像できる。今の人間は何年前にとか何月何日にとか、時系列的な記憶の仕方で過去や現在を捉えていますが、そういった数値や距離感ではなく、この場所でこういう行動をして、こういう感情になったという、『今、ここ』にあるというような感覚を根源的に持っていると思うんです」

『あらゆることは今起こる』

書影

人のできることがなぜか自分にはできないと、子どもの頃から感じていた作家。あるきっかけから専門医につながり、40代になってADHDの診断を受けることに。その体験に、“普通”を強要し単純化、最適化を求める現代社会の歪みを重ねて語る異色のエッセイ集。2,200円(税込)(医学書院)

text_Akane Watanuki photo_Saki Yagi

Videos

Pick Up