一瞬で、つかむ/寿木けい 第11回 ひんぴんさんになりたくて。
本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す、という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。
山梨に越してから、茶道をはじめた。
初めて稽古にうかがったのは、ちょうど一年前のこと。ぶどう畑を吹き抜けて朝の風が、庭の葉を揺らし、いくつの影が畳のうえをゆらゆらと舞っていた。お金では買えないものはたくさんあるが、この環境もそのひとつだと強く打たれた。
通いはじめて少し経った頃、甲州市の名利・恵林寺で、親子を対象にした別の教室も開かれていることを知り、子どもと一緒にお世話になることにした。
歳の近い友達もできるし、おいしいお菓子もあるからと、子どもを釣ってのことだったが、一番は、小学生にもわかるように噛み砕いて教えてくださる講義を、親である私が聞きたいと思ったからだった。そのくらい、茶道に関してはまるっきりの浅学だったのだ。
以来月に二度、十組ほどの親子でお寺に集い、お宝の御軸や道具を間近で見ながら、わいわいやっている。
この教室で、美しい女の子を見た。
ある秋の日の講義のために先生が用意してくださったのは、ススキや木槿(むくげ)、野紺菊、釣鐘草など、可憐ないくつもの草花だった。それも、水を張った容器からこぼれ落ちそうなくらい、たっぷりと。花入は、手付の置き籠。
外の世界から隔離された茶室で、季節感を一身に表現できる命といえば、床にいけられる花々だけである。教室では、生徒たちが席入りする前に花入にいけて仕上げておくのではなく、摘んできたばかりの姿と、それをいける所作を見せる工夫もされている。
この日も、みずみずしい量感を、さあ籠に移そうという段になって、
「お花を入れてみたいひとー」
先生が子どもたちを見渡した。
はーい! といっせいに手を挙げるのが子どもの可愛らしいところで、そのなかから、ひとりの女の子が栄えある花入係を任されることになった。
女の子は、心を決めてお母さんから離れて前に進み、小さな膝をぎゅっとくっつけて正座した。そして、草花と向き合い、ふぅと息を吐いたかと思うと、束を両腕で抱えあげ、そのままばっさり籠にさし込んだのである。ほんの数秒の出来事だった。
なんの衒(てら)いもないとは、ああした心と体の動きのことをいうのだろう。先生も
「これはすごい、すごいですよ」
と感心していらした。
私なら、まずひとつ、ふたつ、花を持ち上げ、どうしたら格好よくいけることができるか、知恵も技術もない頭からひねり出そうとしただろう。その時、心は目の前の花ではなく、実力以上に見られたいというただ一点に囚われただろう。
私は心の底から拍手を送りたい憧れの気持ちで、彼女を見ていた。本人は、まさかそんな思いで見つめている大人がいるとは知らず、跳ねるように正座を崩すと、お母さんのもとへ帰っていった。
茶書『不白筆記』には、「花をいけるには、そのすがすがしさを心に映して、自分と花と一体になること」とある。間違いなく、あの女の子は、花の命と呼応して曇りがなく、清潔だった。
彼女のことを思い出したのは、先日聴いたあるラジオ番組がきっかけだった。
ゲストに登場していたのは、甲本ヒロトさん。ブルーハーツ、そしてザ・クロマニヨンズのボーカルである。
バンドブームの洗礼をうけた昭和生まれゆえ、あえて呼び捨てさせてもらう。普段の生活について聞かれたヒロトは、たとえば読書の栞(しおり)は手作りで、読む本のジャンルやテイストに合わせたものだということや、野菜にくっついてきた虫を標本にして愛でるのが好きだといったことを、贅肉のない的確な表現で、迷いなく答えていた。
想像の斜め上をゆく回答に、驚いて言葉を失ったのは司会者のほう。戸惑いではなく、うれしさにハッとしている様子が、ラジオから伝わってくるのである。
ヒロトは自分がすごいだなんてちっとも思っていない。求められたから、ただまっすぐ開示してみせただけのこと。なんと身軽で、磨かれた態度だろう。このひとは自分を生きている。そう思った。
茶道の最上のおもてなしは、ただひとつ。客を驚かせ、一瞬で心をつかむこと。この境地を求めて門を叩く人の列は、五百年途切れない。
身ひとつ、歌声ひとつで観客を魅了してきたボーカリストと、秋の花束の少女に、同じきらめきを感じる。