JICA海外協力隊×Hanako:私の“気づき”と新しいモノやコト。 インドネシアに〝料理隊員〞として派遣された阿部春香さんの場合

LEARN 2022.02.26

JICA海外協力隊で活動した阿部春香さん。
参加したきっかけや、現地で得た“気づき”について話を聞いた。

あべ・はるか/代々木八幡〈地のものバルMUJO〉で朝食とランチを担当。調理師専門学校を卒業後、都内の和食居酒屋で調理。その後23歳でJICA海外協力隊料理隊員としてインドネシアに派遣された。
あべ・はるか/代々木八幡〈地のものバルMUJO〉で朝食とランチを担当。調理師専門学校を卒業後、都内の和食居酒屋で調理。その後23歳でJICA海外協力隊料理隊員としてインドネシアに派遣された。

RESULT!:日本食への思いが増し、 さらに経験を重ねていく。

インドネシアの生徒たちに料理を教えていたら、もう少し勉強したくなったという阿部さん。帰国後、さらに経験を積むために旅館で働いたり、はたまたワーキングホリデーで行 ったカナダで初めて和食以外の調理を経験したり。「やっぱり日本食が好き!」という思いを強くし、現在は代々木八幡の居酒屋〈地のものバルMUJO〉でおいしい和定食を提供中。
インドネシアの生徒たちに料理を教えていたら、もう少し勉強したくなったという阿部さん。帰国後、さらに経験を積むために旅館で働いたり、はたまたワーキングホリデーで行 ったカナダで初めて和食以外の調理を経験したり。「やっぱり日本食が好き!」という思いを強くし、現在は代々木八幡の居酒屋〈地のものバルMUJO〉でおいしい和定食を提供中。

インドネシア人に日本料理を教え、改めてその素晴らしさに気づいた

高校卒業後、日本食の世界に身を置く阿部春香さんは、インドネシアに〝料理隊員〞として派遣。帰国後も変わらず日本食を作り続けるが、現地でどんな経験をしてきたのか。

 幼い頃から食べることが好きで、春には近くの山で山菜を採って食べていたという阿部さんは、高校卒業後、料理の道に。それと同時に、海外生活への想いも膨らんでいた。「祖父の兄弟が海外で仕事をしていて、協力隊に応募しようと思ったこともあったそうなんです。その直前に海外赴任が決まったので、実際には派遣されなかったのですが」(阿部さん、以下同)。近くに海外経験豊富な親戚がいることで、自分もいつか海外で暮らしたいという思いがあった。「なかなか実行には至らず、料理人として働き始めましたが、あるとき、電車の中吊り広告でJICA海外協力隊の募集を見て。調べてみると、職種に『料理』の分野があったので即決しました」
 初めての海外経験がJICA海外協力隊だったという行動力のある阿部さん。インドネシアでは、国立観光専門学校の調理学科で日本料理教育の補助を行った。ここでは、日本の料理学校では出会えない〝気づき〞がたくさんあった。「調理を教える前に、衛生管理の向上が第一でした。
まな板を漂白したり調理場の清掃をしたりと、日本では当たり前のことから始めたんです」。さらに、調理を人に教えるのは、阿部さんにとって初めての経験。「今まで感覚でやっていたようなことを勉強し直しました。たとえば生徒に『なぜ、だしをとるのに昆布と鰹節を使うの?』と聞かれた時に答えられなかったんですよね」。約割の生徒がムスリムだったため、みりんや酒を使う料理はタブー。「宗教的な禁忌は以前なら面倒に感じてしまっていたけれど、彼らの生活を支えている宗教への理解やリ スペクトが深まりました。食に対する価値観は宗教だけでなくヴィーガンなどもありますが、帰国後は柔軟に対応できるようになりました」
ムスリムに対するイメージは、食以外の場面でも変わったという。「戒律が厳しいイメージがあると思いますが、生活の流れのひとつとしてとても自然に礼拝に行くし、ラマダンも仲間と一緒に楽しんで取り組んでいる印象でした。みんな底抜けに明るいし、すごくピュア。学生たちは初日に家に来てくれるほど、打ち解けるのが早かったんですよ」
 帰国してさらに、日本料理への思いが強まった。それは、季節による食材の変化が少ないインドネシアにおいて、日本の四季を感じる料理を作り、教えていたからかもしれない。

“気づき”のきっかけは?:当たり前と思っていた調理場の姿を再認識。

現地の料理学校で初めて調理場を見たとき、阿部さんは愕然。白いまな板はカビで黒ずみ、床にはハエが舞っていた。時には水道が止まることも。
「生徒たちが怠惰だったのではなく、単に知識がなかっただけなのですが、基本的なところを見つめ直すことができました」
現地の料理学校で初めて調理場を見たとき、阿部さんは愕然。白いまな板はカビで黒ずみ、床にはハエが舞っていた。時には水道が止まることも。
「生徒たちが怠惰だったのではなく、単に知識がなかっただけなのですが、基本的なところを見つめ直すことができました」

影響を受けたモノは?:親戚の姿を見て、海外生活に憧れた。

新潟の山の近くで育った阿部さんにとって、海外で働く祖父の兄弟は大きな存在だった。会うたびに話を聞かされ、「一度は日本を出て海外で暮らしたい」とぼんやり考えるようになった。初の海外が2年間のインドネシアでも、ためらいはなかったという。
新潟の山の近くで育った阿部さんにとって、海外で働く祖父の兄弟は大きな存在だった。会うたびに話を聞かされ、「一度は日本を出て海外で暮らしたい」とぼんやり考えるようになった。初の海外が2年間のインドネシアでも、ためらいはなかったという。

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