理不尽な出来事を飲み込まず、書くことでふりきっていっていくヒロイン。大河ドラマ『光る君へ』 CULTURE 2024.02.15

配信サービスに地上波……ドラマが見られる環境と作品数は無数に広がり続けているいま。ここでは、今日見るドラマに迷った人のためにドラマ作品をガイドしていきます。今回は1月からスタートしたNHK大河ドラマ『光る君へ』について。

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聡明で観察眼の優れた子ども時代。「なぜ父上は今宵も家をあけて平気なの?」

2024年の大河ドラマ、紫式部が主人公の『光る君へ』がスタートした。女性が主人公の作品は大河では15作目で、2017年放送の『おんな城主直虎』以来7年ぶりとなり、脚本を大石静が手掛けている。

本作の主人公、紫式部(まひろ)を演じるのは吉高由里子。『源氏物語』を書いたことで現代でも知られている彼女は、学はあるがなかなか官職につけない父親の藤原為時(岸谷五朗)と、そんな為時を支えるちやは(国仲涼子)の間に生まれ、幼い頃から父親の読む漢文に耳を傾ける聡明な子どもであった。

聡明なだけではなく、たぐいまれなる観察眼が子どもの頃からあった。父の親戚である藤原宣孝(佐々木蔵之介)に、「今宵はどなたのところへ?」と聞くなど、大人のしていることを冷静に見ているようなシーンも描かれる。これは、この時代の男性たちが、本妻だけでなく嫡妻のところに夜な夜な通っていることを意味する。

まひろの父の為時もまた、母以外の女性のところに通っている。それでも母のちやはは、為時が官職に就けるようにと毎日、願掛けをしており、まひろはそんな母に「母上は毎日願掛けをして、父上のことをお祈りしているのに、なぜ父上は今宵も家をあけて平気なの?」と尋ねるのである。

しかし、そうやって父を支えていた母親は、ある日、願掛け中に通りすがった藤原道兼(玉置玲央)によって無残に殺されてしまう。こうした経験を忘れず、その後もずっと自分の中で考え続けたからこそ、後の紫式部は生まれたのだろうと思わせるシーンである。

光る君へ

道長の気付いた女性たちの「寂しさ」が指すもの

この物語の中の女性たちは、まひろやちやは以外にも、矛盾を抱えて傷ついている。先述の藤原道兼の姉である藤原詮子(吉田羊)は、六十四代・円融天皇の妻となり、懐仁親王をもうけるも、子どもが生まれてからは円融天皇からかつてのようには愛されず寂しい思いを抱いていた。

そんな詮子がなんでも話せるのが、後の最高権力者となる藤原道長(柄本佑)である。道長はぼーっとしていると評されるが、それは世の中のことや、まひろや詮子のこともよく見ていて、いろいろなことを自分で考えているからではないかと思える。

道長とまひろは幼い頃に出会い、まひろの母の死をきっかけに会えなくなるが、大人になって再会。お互いに恋心とも親愛の情ともとれる気持ちを抱いているのが見て取れ、その感じが、この大河ドラマを現代的なラブストーリーを見ているような楽しさをもたらしてくれるのである。

そんなぼーっとしていて、女性たちの「寂しさ」に人一倍敏感な道長は、私からすると映画『バービー』におけるアランのようにも見える。つまり、ヒロインに寄り添う伴走者のようなところがあるのである(もちろん道長はまひろともっと深い関係性があるから、ケンのような役割もあるのだが)、この優しき道長が、ドロドロの権力争いに打ち勝ってどのように最高権力者になるのかも、見どころになるのだろう。

しかし、道長の気付いた女性たちの「寂しさ」というのは、ちやはが夫を思って懸命に願掛けをしていても夫は嫡妻の元にいっているとか、詮子が夫から愛されないという寂しさを抱えているという気持ちというよりは、この時代の女性たちが、権力争いをしている男性の陰で自分を押し殺して生きているようなことを指しているのではないかと思える。

そういう意味では、幼い頃から学問に関心を持っていても、卓越した観察眼を持っていても、それが(現時点では)生かされないちやはの状況なども「寂しい」状況であるとも言えるだろう。

しかもまひろは、母親を自分の目の前で殺した藤原道兼と大人になってから再会。感情は「寂しい」というレベルではなく、怒りでかき乱される。しかし、それを知った父親はまひろの弟がまっとうな官職を得るために、道兼のことには目をつぶって「許せ」と言ってくるのだった。

昨今は理不尽な出来事を「飲み込まない」人も増え、物語の登場人物にも増えてきた。

まひろの状況から、韓国映画である『82年生まれ、キム・ジヨン』や『はちどり』、中国映画の『シスター 夏のわかれ道』のことを思い出してしまった。これらの映画の中に出てくる主人公の母親や叔母たち、つまり若い主人公よりも、ひと世代上の女性たちは、男の兄弟がより良い職に就くという目的のために、兄弟よりも優秀であっても大学進学をあきらめ、自分を犠牲にせざるを得ない。まひろも同じ状況である。

まひろは父から、「お前は賢い。わしにさからいつつも、何もかもわかっておるはずじゃ」とその賢さを狡猾に利用され諭されるが、「わかりません」と突っぱねる。この父親の諭し方が巧妙である。理不尽なことを腹の中にとどめてもらいたいときに、「賢さ」をちらつかせる人は現代にも存在するのではないだろうか。例えば、女性が女性だというだけで不利な立場になったときや、ミソジニー混じりの発言に傷つけられてそれに対して怒りを訴えたりしたとき、「賢い君なら、どうなるかわかるよね?」と諭しながら脅しをかけるというシーンはドラマで見ることもある。そこまでのことではなくとも、近い場面に出くわした人もいるだろう。
そういうことに出くわしたとき、かつてであれば、多くの人は恐怖からそれを「飲み込む」ことしかできなかったかもしれないが、昨今は「飲み込まない」人も増えただろうし、物語の登場人物にも増えてきた。ドラマ『エルピス-希望、あるいは災い-』の主人公の浅川恵那(長澤まさみ)のセリフにも「飲み込みたくないものを飲み込まない。でないともう死ぬし、私」というものがあった。まひろが父に対して「わかりません」と強く突っぱねたシーンを見て、彼女も理不尽なことを決して「飲み込まない」ヒロインなのだなと思えた。

まひろはまた、父に内緒で、ときおり恋文の代筆の仕事をしており、それが見つかって禁止されたときに「代筆仕事は私が私でいられる仕事なのです」「いろんな人の気持ちになって、歌を詠んだりするときだけ、6年前の出来事を忘れられるのです」「縛られても、必ず縄を切って出ていきます」と語っている。まひろは、さまざまな理不尽な出来事を飲み込まず、書くことでふりきっていっていくのだろう。

text_Michiyo Nishimori illustration_Ryo Ishibashi edit_Kei Kawaura

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