「私の知らないことを教えてくれる、年の離れた妹かな」#05 ファンタジスタさくらださん 前編 MAMA 2023.08.03

タレントとして、近年はファッションデザイナーとしても活躍するファンタジスタさくらださんは10歳の娘を持つママでもある。スチャダラパーのBoseさんとともに楽しそうに子育てしている様子はSNSでよく発信しているので、ご存じの方も多いだろう。娘さんとは非常にフラットな間柄で、「親子というより友だち同士のよう」というさくらださんと娘さんの話を、さくらださんのこれまでの人生を振り返りつつ聞いてみました。

10歳の女の子のママである彼女に、いま直面している子育ての悩みはありますか? と聞くと「全然勉強してくれないことかな」と苦笑い。
「とにかく、漫画とゲームが大好きな子なんです。いまは学校が夏休みだから今日も午前中は『ちゃお』の新刊を読んで、その後はずーっと『ゼルダの伝説』(笑)。でもね、いっつも機嫌よくいてくれるから、それでいいやと思ってて。勉強なんかできなくても、私の知らないことを教えてくれるし、ホント友達みたいなんです。というか、年の離れた妹かな。『てぇてぇ』って言葉、知ってます? 『尊い』のスラングなんです。Boseさんに、『絶対ラップに取り入れた方がいいよ!』って言ってるんですけど(笑)」

ファンタジスタさくらださんといえば、あやまんJAPANのメンバーとしてバラエティ番組で活躍していた姿を思い出す人は多いだろう。いまは自身がプロデュースするファッションブランド「すこしふしぎ(S.F sukoshifushigi)」のデザイナーとしての活動がメイン。とんがったキャラクターとしてテレビに出ていた頃とは違う、「ものづくり」の現場に活路を見出したのは、結婚・出産・子育てを経験したことが大きい、と彼女は言う。
「スチャダラパーのBoseさんと結婚したのが2012年。その翌年に子供を授かり出産して。そこからの10年、11年間で経験したてきたさまざまなことが、今年初めて発表したコレクションに結実したんじゃないかなって」

もともと絵を描いたりものをつくることが大好きで、洋服を自作するのも得意。子供が小さかった頃は、手仕事をするといい息抜きにもなったという。本格的にファッションに目覚めたのは、デザイナー坂部三樹郎さんと山縣良和さんがプロデュースした展覧会『絶命展』を観たときだった。
「めちゃめちゃ触発されました。で、2019年から3年間、三樹郎さんが主宰するファッションスクール『me』に通って。それまでの自分の人生を振り返り、自身のことを俯瞰しながら、クリエイションを深めていったことは非常に大きかったんです」

そして、「東京ではない場所」に住むことで客観性を持てたことも影響している、とさくらださんは言う。
「2014年に鎌倉に引っ越しました。娘が1歳半くらいのときに。そこからはずっと鎌倉。いまは海から数分の場所で親子3人暮らしているんです。私のアトリエもその近所に借りていて。子供が生まれたので、夫婦ともに働き方を変えようと思ったのが動機でした。夫婦2人だけで始まった子育てだったし、物理的にも精神的にも東京に居るのがしんどくなったというのもありましたし。子供とちゃんと向き合うためにも東京から離れたほうがいいなって。やっぱり、『なにかやらなきゃいけない』って感じになってしまうんです、東京にいると。いろんな人にいろんなことを誘われるし、それに応えようとする自分もいる。子育てをしながらいろんなことをどんどんやらなきゃ取り残されるかもって、気持ちが急かさせる部分もあって。でも、こっちにいると情報量が少なくなるからどうしても空白が生まれるんです。ああ、この空白が自分には必要だったんだなって。東京以外の場所に住んだことがなかったのでそれまで気づいてなかったんです」

 

1985年、東京都生まれ。幼少期は大田区で、中学になってからは品川区で、小さな会社を経営する父と専業主婦の母、5つ上の姉の4人家族で育った。
「ごく普通の仲のいい家族でした。小学生まで久が原というところに住んでいて、私が中学に入るタイミングで父が中延に家を建てて祖父母も一緒に住むことになって。中学は受験して私立の女子校に入りました。だから、そこからはずっと女子校。女の園で育ったんです」

しかし、さくらださんが中学3年生のとき、幸せな家庭は崩壊してしまう。父が病に倒れ、亡くなってしまったのだ。母は父の会社をすぐに手放す決断をするが、後に借金があったことが判明する。
「母は主婦だったし働いた経験がほとんどなかった。父の会社にもまったく関与してなかったので、父がどんな仕事をしていて、どれだけ借金があるのか、会社の財政状況はおろか、家を担保に融資を受けていることさえ知らなかった。それで、私が高校3年生のときにとうとう家にいられなくなってしまって家族も解散。『女3人、それぞれ生きていきましょう』と(笑)。いまは笑って話せますが、当時は本当につらかった。知り合いの家にお世話になったり、マンスリーマンションを泊まり歩いたり。つい最近までそのときのことを思い出さないようにして生きてきたんです。大きなトラウマですよね。だから、今後、自分が結婚するとしても、絶対に主婦にはならない、子供1人ぐらいは自分だけで育てられるように働き続けなくちゃいけない、稼がなくちゃいけない、そんな使命感というか強迫観念にかられるようになったんです。母が社会に戻ってくときにすごく苦労していたし、それを見ている私もすごく不安だった。何があっても働き続けなければ生き続けることすらままならなくなるんだと」

その後、高校をなんとか卒業。母の強い希望と周囲の勧めもあり奨学金を得て付属の女子大へ進学することが叶った。でも、良家の子女が通う学校に違和感を覚えるように。
「完全にグレました(笑)。こっちはバイトに明け暮れ、日々をどうサバイブするかでせいいっぱいだったから、同級生とは色々な価値観が違うことで話が合わなくなっていました。私立の女子大だったので、いわゆる6大学とのインカレサークルが学内に存在していて、でもその活動のほとんどがただの飲み会だったことを知って非常につらかった。結局どこにも馴染めずサークルには入りませんでした。で、大学2年生になったときに水商売を始めたんです。飲まされるのではなく、飲ませるほうが私にはたぶん向いているなと(笑)」

さくらださんにとって「夜の世界」は懐が深く、居心地が良かった。社会常識を押しつけられることもなく、自分のスキルでお客さんを連れてくればそれが結果としてお金になる世界が性に合っていたという。
「そのうち大学には行けなくなってしまって中退しました。で、水商売は続けながら、イベントコンパニオンの派遣会社に登録して、展示会での受け答えをするような仕事も始めて。そんなときに、派遣先であやまん監督と出会ったんです。23歳ぐらいだったかな。この先どうしようかなって、何の計画もない日々の中、『ねえねえ、ミーハー飲みって興味ある?』って。『ミーハー飲みって何ですか?』って(笑)」

あやまん監督が率いていたのは、「試合」と称する飲み会に「参戦」し、体当たりの過激な芸を披露し場を盛りあげる「飲み会芸」をエンタテインメントに昇華したガールズグループ「あやまんJAPAN」だった。
「それまでの飲み会って、おもしろいことをするのは男の人で、女の子はただ黙って座っていればいい、水商売のお店でさえ男の人の話を肯定して頷いていればいい、というものだったけど、真逆だったんです。飲み会に対して非常に能動的であることに衝撃を受けたし、それがエンタテインメントとして成立してることも目から鱗だった。そこからはもう監督と一緒にいるのがとにかく楽しくて。本当に毎日、監督と一緒にいるようになりました」

そして、六本木界隈では知る人ぞ知る存在に。「破天荒な女の子たちがいる」とお笑い芸人を中心に噂が広まり、テレビのバラエティ番組にも出演することになる。
「それが2008年のことでした。そこから3年間は怒濤の日々。タレントとして吉本興業に所属し、藤森慎吾さんとユニットを組んで。もともとお笑いが大好きだったので、尊敬する芸人さんとお仕事ができるのは楽しかったし、勉強になることも多かった。でも、私は所詮素人。地肩のある芸人さんとは全然違うんです。叶わない。ものすごいスピードで消費されていくのがわかっていたし、この世界でやっていくことに限界を感じるようになったんです。アウトプットばかりでインプットがないとダメになるだけだなって」

そんなときに出会ったのがBoseさんだった。

後編では、夫Boseさんとの出会い、結婚・出産・子育てについての話を伺います。

photo:Takahiro Idenoshita text:Izumi Karashima

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