美味しいコーヒーを淹れるために大切なこと。それは気持ちと振る舞い|前田エマの、日々のモノ選び。#22
数年前、とある小さな島のカフェのようなところで、住み込みのアルバイトをした。その店には、毎朝のようにコーヒーを飲みにくるおじいさんがいた。
「エマちゃんはこれから、コーヒー係ね」
店主にそう言われたとき、ぎくっとした。私はコーヒーが苦手なのだ。
匂いも味も嫌ではないけれど、喉に残るイガイガした感じがダメなのだ。
“コーヒー係”なんて私に務まるのだろうか?
淹れ方を教えてもらい、見よう見まねでやってみた。そして自分で淹れたコーヒーを飲んでみた。
う〜ん…。
これが美味しいのか、美味しくないのか、よくわからない。何度やっても、間違っているような気がして仕方ない…。
翌朝、例のおじいさんがやってきた。
カウンター席に座るおじいさんの目の前で、あわあわしながらコーヒーを淹れ、恐る恐る差し出す。
一口飲んで、「うん、美味しいよ」とおじいさんはやわらかに微笑んでくれたが、昨日までと同じ料金をいただくことに胸が痛んだ。
それから毎朝、私はおじいさんにコーヒーを淹れた。
忙しくてバタバタしながらコーヒーを淹れても、ゆったりのんびりコーヒーを淹れても、おじいさんは「おいしかったよ」と言って帰っていく。私の心の中にはモヤモヤしたものが積み重なる。
教えてもらった通りに行程を踏み、何度もやっていくうちに時間内に淹れられるようになったけれど、わからないことばかりだ。
なぜ蒸らすのか?
なぜ抽出をするとき、細く湯を落とすのか?
なぜ中央をくぼませるのか?
なぜ一気に抽出してはいけないのか?
むむむ…わからない。
次にこの店へ来るときはもっと美味しいコーヒーを淹れられるようになっていようと心に決め、東京へ帰った。
東京に帰ってすぐ、蔵前でコーヒーとチョコレートの店「蕪木」を営む蕪木さんに、失礼を承知で「コーヒーの淹れ方を教えていただきたいのですが…」と連絡した。
島でのあれこれを話すと「いいですよ」とお返事をいただき、コーヒー教室を開催していただけることになった。
少し教えてもらったくらいで、コーヒーマスターになれるわけじゃないし、たかが知れているだろう。しかしそれでも、あのモヤモヤを減らしたかった。
蕪木さんの小さなコーヒー教室は、今思い出しても贅沢でありがたいものだった。
コーヒー豆がどんな場所でどのように栽培されているのか。
焙煎する前の豆を見せてもらい、焙煎の仕組みや豆の違いも教わった。
そういう基礎的なところから、淹れ方の作法のようなもの、酸味と苦味の関係性まで丁寧に教えてもらったのだが、初心者の私の頭では追いつかない。膨大な知識と経験から楽しそうにお話をしてくれる蕪木さんの横で、私はヒーヒー言っていた。
そんな私を見かねて、蕪木さんは魔法のような言葉をささやいた。
「淹れ方でできることなんて、本当は限られているのかもしれません。私は今、美味しいコーヒーを淹れているんだと、そう言う気持ちと振る舞いが、実はいちばん大切なのかもしれませんね」
そう言われて思い返してみると「蕪木」のカウンターに座って、コーヒーを淹れてもらう時間は、なんだか特別だなと感じる。
私だけの特別な一杯を、大切に丁寧に淹れてもらっているような、嬉しい時間なのだ。
それからと言うもの、私は家でよくコーヒーを淹れるようになった。
「蕪木」の豆を使って、蕪木さんの言葉を思い出しながら。「私は今、美味しいコーヒーを淹れているんだぞ」
いちばんのお気に入りは「オリザ」。
朝の一杯に飲むことが多い。酸味が強くなく、明るく元気な感じで飲みやすい。次に好きなのは「羚羊」。しっとりとした味わいで、ゆっくり味わいたい時にぴったり。
私はいまだにコーヒーのことはよく分からないが、「蕪木」の豆は抽出するときにぐわっと膨らむので、淹れていて気分が上がる。
他の店の豆も色々試してみているが、今のところ私の気分にピタッと合うのは、贔屓目なしに「蕪木」のコーヒーだ。
数年後、再び島で働かせてもらうことになった。フェリーに乗って島へ行き、ワクワクしながら翌朝を待った。しかし次の日も、その次の日も、おじいさんは来なかった。
店主に聞くと、おじいさんは病気でなかなか来られなくなったのだという。私はそれでも諦められず、いまだに細々とコーヒーの腕を磨いている。
1992年神奈川県生まれ。東京造形大学を卒業。オーストリア ウィーン芸術アカデミーの留学経験を持ち、在学中から、モデル、エッセイ、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティなど幅広く活動。アート、映画、本にまつわるエッセイを雑誌やWEBで寄稿している。2022年、初の小説集『動物になる日』(ミシマ社)を上梓。6月20日に韓国カルチャーガイドブック『アニョハセヨ韓国』(三栄)を刊行。
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