哲学者・永井玲衣さん特別寄稿「考えるための場所。」
考えるための場所。
もしあなたが、こんな変なことを考えているのは自分だけじゃないかなどと心配しているのだとしたら、安心してほしい。ひとはみんな変なことを考えている。また、もしあなたが、自分はなんて平凡なんだと自分で自分に(なぜか)落胆しているのだとしたら、それも安心してほしい。凡庸な考えをもっているひとなどはおらず、誰もがとりかえのきかない、なさけなくて、おかしくて、やさしい考えをもっている。
考えてもみてほしい。カフェで隣に座るひとの会話はおもしろい。たとえば先日。隣に座るサラリーマンが電話で話している。きわめて真面目そうに「謝罪はうまくいきました」と言っている。謝罪がうまくいくとはどういうことなのだろう。すばらしい身振りで謝罪することができたということなのだろうか。それとも、相手が全然怒っていなかったということなのだろうか。いや、でもそれだったら「謝罪がうまくいった」のではなく、「相手はそもそも怒っていませんでした」と報告するだろう。まず怒りがあり、謝罪があり、和解がないと、うまくいったとはいえない。それならば、感動的な和解のシーンを経験してきたということなのだろうか。
あるいは、また別の日。カフェで隣に座るおばあちゃん二人が楽しくおしゃべりをしている。「それでね」と一人が言う。「どうにか走ったのよ」。もう一人がおどろいた様子で「あら、そうなの」と返す。どうやら、誰かを走って追いかけたらしい。街中を全力疾走するおばあちゃんを想像する。すてきだ。おばあちゃんを走らせるほどのこととは、一体何だろう。街ではいろいろな事件が起きている。
つづけるようにして、おだやかに、走ったおばあちゃんがそのまま「心だけ」と言う。「あっ心だけ」。もう一人はそう返す。走っていたのは心だけであった。しかし心だけ、相手を追いかけるということのうつくしさを思う。はたして追いついただろうか。心はどのくらいの速度で走るのだろう。
何かをゆっくり考えることが大事だとよく言われる。だが、意を決して何かをゆっくりと考えようとすると、うまく考えることができない。自分はだめだと感じる。考えることは贅沢なことだと、自分には手の届かないものだと思ってしまう。なぜなら、わたしたちの社会はとても忙しい。立ち止まることができない。それに「ゆっくり考える」ということが、どういうことなのかあまり共有されていない。「考えるってどういうことをすることだと思いますか?」と問いかけられて、こたえられるひとはあまりいない。「考えるとは、考えるということです」。言葉が繰り返されて、頭がぼうっとしてしまう。
さまざまな場で、ひとびとと共にゆっくり考える場をひらいている。ここに流れる時間は、すいすい、つるつる、ちゃきちゃきという音はしない。それよりも、のろのろ、がたがた、ゆるゆる、じりじり、ままならない音がする。すぐには「答え」がわからない問いについて考えるからだ。
問いは、参加者から出してもらう。かっこいい問いでなくていい。それこそ「謝罪って何をすることなんだろう?」とか「誰かを追いかけたくなるのはなぜ?」とか、手のひらサイズの問いが出てくる。「エレベーターの中ってなんで気まずいんだろう」「いい日記を書きたいってなんで思っちゃうんだろう」「自信って持たないといけないのかな」。どれもこれも、つぶやきのような、ため息のような、ささやかな問いだ。もやもやと胸の中をただよっている、うまく考えることのできない、だからこそ忘れようとしてしまう問いだ。
ひとりで気合を入れて考えようとすると、すぐに煮詰まってしまう。しょうがないから、小さな画面にワードを打ち込んで、うさんくさい記事を読む。うさんくさいなあ、とどこかで思いながら、画面をすらすらスクロールして、まあこういうことか、こういうことにしておこう、と思う。納得というより、あきらめだ。
だから、わたしたちは誰かと考える。ひとびとと、互いの考えをききあいながら、考える。誰かが何かを言う。すると、ふとそのことについて問いが頭をもたげたり、こういうことなのかな、と別の言葉で言い換えたりする。それが考えるということだ。あなたは考えている。「きく」が手前にあるから、考えることができる。
そうなると、ひとりで自ら「考える」ということなどあるのだろうか、という問いが生じてくる。そう、わたしたちは「考える」のではなく「考えさせられている」。「考えてしまう」。そうやって、考えるということは始まっている。
「考えてしまう」がはじまると、勝手に頭の中の岩がころがっていくように、考えがすすんでいく。もっと考えたいから、もっとききたくなる。「きく」と「考える」は互いにもつれあって、どちらが先かわからなくなる。「きく」と「考える」のための場をひらくと、ひとびとは実は変なことを考えていることがわかる。誰もが、そのひとらしく、そのひとの言葉を持っている。だが、くりかえすように、それはひとりでには出てこない。そのひとらしさは、ひとびとの間ではじめて生まれてくる。
ここまで書いてきてわたしが言いたいことは、考えるということをひとりでやらなくてもいいんじゃないかということだ。ではどうやってやるのか。友だちでも、知らないひとでもいい。誰かと考えるのだ。どこで? カフェですればいい。
考えることが遠い。何か意気込んでやらなければいけないことだと思われている。もっと考えることを、わたしたちの近くに引き寄せないと、いつまでも遠いままだ。考えるということを、もっともっと、日常にあふれさせなきゃいけない。とはいえ、わたしたちの日常はなかなかいそがしい。もっと、日常ではあるのだけど、非日常よりの場所はないものか。それがカフェなのだ。
いまやカフェは、スマホをいじる場所か、パソコンで仕事をする場所になってしまった。どちらもひとりきりでやることだ。それをやるなとは言わない。わたしだって、仕事のために入ることもある。そうではなく、もっと別の仕方の可能性をひらいてもいいんじゃないかという呼びかけだ。誰かと共にききあいながら、考える場所。ついつい考えてしまう場所。カフェはそれにぴったりだ。
夜の居酒屋でもいいじゃないか、と言われるかもしれない。たしかにそうだ。「深い話」は飲み会の終わり際に突然はじまったりもする。それでもいい。だけど、アルコールにのまれてしまうこともある。騒がしさにかき消されてしまうこともある。だから、朝のカフェ。ひとも少ないし、頭もすっきりしている。これから一日がはじまる清々しさもある。わたしはつねづね、夜に酒を飲むより、朝にコーヒーを飲もうと訴えてきた。ケーキもつけていいですよ。わたしがゆるしましょう。
誰かと行くのは、まだハードルが高いというひとは、ひとりで行ってもいい。実はひとりで座っていたとしても、他者とともに考えることはできる。本だってひとりの他者だし、あなたのまわりにはたくさんの他者が座っている。イヤホンを外し、耳をすませてみると、変な言葉がきこえてくる。「謝罪はうまくいきました」とか「走ったのよ、心だけ」とか。そうして、ついついふと考えてしまう。うまくいくってどういうことなんだろう。ゆるしってなんだろう。もうあなたは考えている。