《影絵作家》黒柳徹子さんも影響を受けた、100歳を迎える藤城清治さんの遊び心溢れる影絵の世界。
「いつまでも、ちょっとしたいたずらごころを忘れずに」
ハンドメイドは小宇宙#4
21世紀、いまはワンクリックでなんでも探せる時代だけれど、本当に欲しいもの・みたいものはいつも見つからないような気持ちになるのはなぜだろう。
でも私たちには最強の相棒、"両手"がある。
ちょっとの失敗なんて気にしない。心の動くままに手を動かせば、世界でたった一つの愛おしいモノたちが誕生するかもしれない。
今回の「ハンドメイドは小宇宙」は特別編。来年100歳を迎える、ものづくりの大先輩であり巨匠、国内外で愛される《影絵作家》の藤城清治さんに会いに行きました。
ゲスト:影絵作家・藤城清治さん
「いつまでも、ちょっとしたいたずらごころを忘れずに」
藤城清治さんの影絵作品といえば、あふれる愛や夢。どんな時代でも人々が変わらずに追い求める希望や祈りを、光と影を巧みに操り、紙で表現する。また、幼少期の無邪気な好奇心を思い出させるようなキャラクターたちに魅了されたという方も多いのではないだろうか。
そんな藤城さんは今年、99歳を迎えた。青年期には戦争も経験し、忘れがたい”影”も抱きながら、今も制作を続けている。日常の中に潜むささやかなものへの興味、生きていて日々なにかを感じられることへの純粋な喜びを決して忘れず、一日一日を過ごしている。
そして今、本来ならば繰り返してはならない悪夢のようなニュースがまた、次々と私たちの生活に飛び込んでくるようになった。どんな時代でも常にものづくりとともに歩んできた人生のなかで、藤城さんは今どんな気持ちで制作を続けているのだろうか。取材の日、ちょうどスタジオで制作中だという藤城さんを訪ねてお話を伺った。
「僕は、何か楽しいことがあった時、自分ひとりだけ独り占めっていうのがいや。楽しいことがあるとみんなにわけたくなる。そういう気持ちが、昔からずっとあるんですよ。小さい頃から無口な子供だったから、両親にも何かを作ることで日々の発見を伝えていたのかもしれないね。『こんなことがあったよ』『こうすると面白いよ』とかね。今思えば、それが会話みたいなものでした。そうやって、子供の頃から何かをつくることで自分の思いを表現していた。あとは、昔から細かいものを作るのが好きで、よく地図を書いていました。どんどん細かく色々なものを書きこんでいくのが楽しくてね。そうすると、やっぱりみんなに上手だって褒められて、嬉しかった」
そう言って無邪気な笑顔で話し始めてくださった藤城さんは、子供の頃から、学校や家で自分の手で作れるものはなんでも器用につくってしまっていたそう。自分の思い描く世界をただひたすらつくりあげていくのが好きだったという幼き日の姿は、今と重なる。
そんな想像力豊かな幼少期を過ごし、小学生になると、慶応普通部に入学。その後は、慶応大経済学部予科へ進学した。その間に出会った、絵の恩師である仙波均平先生と、パリ留学から帰国していた画家の猪熊弦一郎さんとの出会いは、藤城さんにとって今も忘れられない大事な思い出なんだそう。この恩師二人と出会い、藤城さんは「パレットクラブ」という絵のサークルに所属し、掛け持ちしていた「児童文化研究会」で、人形劇を始める。
「やっぱり恩師の仙波均平先生と画家の猪熊弦一郎さんには影響を受けましたよ。仙波均平先生には、絵の基礎を全部教えてもらって。画家の猪熊弦一郎さんは、当時珍しいパリ帰りだったからモダンな感覚を随分教えてもらいました。大学生になると、児童文化研究会でとにかく人形劇に夢中になって。人形劇だけど、子供向けというだけではなく、大人も喜ぶような美しいものを作ろうと張り切っていましたよ。そこで影と光を使った影絵人形劇にも出会い、色んな見え方を試すのが楽しくて、さらにのめり込みました」
藤城さんの大学生時代は、日本が戦時中だった時。そんな状況でも、藤城さんはとにかく人形劇を続けた。「いろんなところに、人形劇で慰問に行きました。若い男はみんな兵隊行ってしまうから、残っているのはどこも子供や女性、老人だけになって。だから、みんなにすごく喜ばれた」
その活動は、藤城さんが海軍に志願し、海軍予備学生になってからも続いた。「海軍に入ってからも、人形劇で随分周りの人を楽しませました。明日死ぬかもしれない、という状況で、とにかくみんなを励ましたくてやっていた。人形劇みたいなそういうことこそ、人間の本当の楽しみなんだって思って、続けました。そういう時でも、笑いが大事だと信じてね。みんな切羽詰まった状況なのに、人形劇が面白いと声あげて笑ったり、感激して涙ぐんだりしてね。学生という立場だったからできたことだったかもしれないね。あの頃の体験が、僕の中にいつまでもあります。みんなをどうにかして楽しませたいという性分なんです」
同級生の中には、特攻隊に志願して命を落とした人も沢山いた。この歳になってから、藤城さんは、彼らをよく思い出し『会いたい』と恋しく思う日があるという。
そんな戦時中を生き延び、大学へ復学してから1年で卒業。人をとにかく楽しませたいという人柄と、戦地での経験が生かされ、様々な人との出会いの中で影絵作家への道が開かれていった。
卒業後は、銀行員になってほしいという父親の希望には応じず、人形と影絵の劇場ジュヌ・パントルを結成。そして東京興行(現:東京テアトル)に入社し、映画の挿絵などを担当した。同時期に編集者・花森安治と出会い、雑誌「暮しの手帖」にて、影絵の連載も開始する。NHKの試験放送にも参加し、影絵を担当した。
あのNHKテレビ女優第1号として入団した黒柳徹子さんも、藤城さんの人形劇をみてNHKに入ることを決意したそう。長く続けた人形劇の活動から、だんだんと平面の表現である、影絵に魅了されていった理由は一体なんだったのだろうか。
「僕は今、影絵作家なんて呼ばれているけど、基本的には影絵も人形劇も絵を描くのも自分にとってはあんまり変わらないんですよ。自分は、昔から基本的に立体的なものが好き。だから切り絵も平面に見えて、カットの仕方や光や影の具合で表情が変わって、それが面白い。そういう劇要素があるから、とにかく日々いろんな見え方を実験しているという感じです。それに、自分は何をやっているかというより、自分が人に何を訴えたいか、それを考えたい。ただ、ものをつくるなら手を使えば誰にでもできる。だから、どんな風に人に伝えたいか、それをひたすら考えて行った先に、自然でいいものが出来上がると思います」
基本的な切り絵の技術に、カラーフィルムや光と影を用いて、独自のスタイルを作り上げていった藤城さん。長く続けてきた制作期間のなかで、変わらないこだわりを尋ねると、片刃カミソリを使用することだと教えてくれた。
「みんな、きっとカッターなんかで切った方が楽でいいんじゃない、と思うでしょう。実際、集中していると間違ってカミソリの刃の方を持ってしまって、怪我したこともある。でもカミソリだと、気持ちをのせて進んでいける。ただ綺麗に、線通りに切りたいならカッターを使えばいいと思うけれど、その時の勢いのままやれるのは、片刃カミソリです」
来年は、個展のために福岡に行かれる予定だという藤城さん。これだけ長く制作を続けていても、まるでゴールなどないような力強さを見せてくれた藤城さん。この時代、その気力を保つ秘訣を尋ねると、生きることへの好奇心を持つことだと教えてくれた。
「どんな大変な時でも、あらゆるものの中にいいことがあると思っています。あとは、あんまり真面目すぎちゃつまらなくなる。何かを作ろうと思いすぎず、いたずらごごろをもって遊ぶというかね、日々を暮らすこと。そのせいで、この前猫を追っかけて、転んで怪我をしましたよ。でもそうやって自由人でいるからこそ、こういう仕事ができているんじゃないかな(笑)。ニュースや新聞、週刊誌なんかも毎日読みます」
「とにかく藤城清治は、毎日違う。留まることをしないんです。ウクライナで戦争がはじまった時も、すぐに絵を書いて『戦争をやめてほしい』と訴えていました。何かが起こってしまっても、自分にできることを探して、常に前へと進んでいる。彼にとって同じ日は、1日もないんです」と、藤城さんを側で見守る娘・藤城亜季さんも教えてくれた。
取材後も、スタジオでの制作に打ち込んでいた藤城さん。肩書きや名前にとらわれず、感性の赴くままに「自分にできることをしている」と戸惑いのない姿は、これからも決して忘れられない光景となった。
interviewer,text,edit_Wakaba Nakazato