思いを立体にする人たち/寿木けい 第16回 ひんぴんさんになりたくて。
本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す、という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。
本や雑誌を読んで、ああ、すごいなあとうれしくなって、著者やアーティストのイベントに行ってみたり、手紙やメールを書いたりすることがある。紹介されているのがお店であれば、買いに(食べに)行くことも多い。
私のこうした姿勢──時間とお金を使うこと──を評して、友人は「意志決定にいつもちゃんとした理由がある」と言うが、姉は「なんだかんだと口実を作っては遊びに行って散財している」と、どちらかというとネガティブだ。
どちらも正しく言い当てている。まず、前者のように行動してきたおかげで、その先で、人との出会いに恵まれてきたと思う。物に対してもそう。購入したのがたとえ小さな花瓶ひとつであっても、視界に清々しい風が吹くような気持ちよさが暮らしに加わる。後者は説明するまでもない。収納場所と貯蓄の確保につねに頭を悩ませている。
つい最近も、ある本を読んで興奮した私は、著者に会いに大阪へ行った。
書名は『ようびの器 ものみな美しきそのために』。書いたのは「工芸店ようび」の店主、眞木啓子さんだ。
「工芸店ようび」は、上質で役に立つ日常の器の店として、五十三年前に曾根崎で生まれた。先に挙げた本は、眞木さんの五十年以上にわたる顧客との交流、そして、器の目利き、それらと切り離せない料理のことを綴った初の著書だ。
本を読んで私が打たれるとき、そこには気前のよさというものがある。眞木さんの本も、もちろんそう。半世紀の商いの経験により得られた発見から、料理の盛り付けのコツまで、資料としてとても役に立つし、彼女が四季を大切にしてきた姿がいきいきと表現されている。
一朝一夕には到達できないその境地が、どのページからも感じられ、何を伝えようとしているのか輪郭がはっきりしている。このような本を、生涯で一冊でも表現することができたら。書き手としてこんなに素晴らしい体験はない。
お店に行けばその眞木さんに会える。器を一緒に選ぶことだってできる。急いでスケジュール帳を見て、五月のある日を選んで私は新幹線の切符を買った。
と、ここまで書いておいて心苦しいけれど、じつは眞木さんは不在で会えなかった。なぜ一本電話を入れておかなかったのか。なぜその後に京都で仕事を入れてしまったのか。それでも、私は、じっくり選んだ輪島塗の丸盆を「あるだけ全部ください」と求め、満足して大阪を離れた。寂しくはなかった。きっとまた来る。そう分かっていたからだ。
そのくらい、宝箱をひっくり返したように、どこを覗いても楽しくて仕方がない魅力的なお店だった。眞木さんが大切に守ってきた場で、丁寧に扱えば私より長生きするであろう本物の漆盆を買い、私は勝手にバトンを受け取ったような痛快な気分になっていた。
ところ変わって東京。梅雨の合間の暑い日、「澱々(おりおり)」というバーの開店を祝うため、私は本郷の菊坂を歩いていた。
「澱々」は、アルコール以外の液体を使っておいしさの表現を追求してきたemmyさんが、満を持して開いたお店だ。私はSNSで約三年前にemmyさんを知り、その後私の個展に彼女が遊びに来てくれて、交流がはじまった。
場作りと経営というのは、頭の中にあるものを立体にしていく作業だと思っていて、それを叶える人たちを尊敬するし、憧れてしまう。だから、彼女ら彼らの人生の節目には、なるべく立ち会いたい。走りはじめた人の“気”に触れて、あやかりたいような思いもある。
この連載をスタートしたときの気持ちを思い出す。袖を振り合った人の中に見つけた、心遣いや高潔さ、まっすぐさを、すくいとって提示してみたいと思ったのだった。それが著名人でなくても。
これまで登場した人たちを鏡にして、私は自分を映してきたように思う。いろんな場面で自分がどう反応するか、確認し続けてきたのだろう。驚くとか、憧れるとか、ただうらやましがるとか圧倒されるとか、感情が動くとき、そこには必ず人との出会いがある。
今週末は、彫刻家・上田亜矢子さんの個展(※)へゆく。数か月前にギャラリーで見て衝撃を受け、思い切って買った小さな石のオブジェの、作者に初めて会えるのが楽しみだ。子供たちも連れて行こう。
自分という器を満たしてよろこばせるために、人に会うことに夢中なのだと、今、ようやく分かりはじめている。
illustration : agoera