おもしろがりのメガネ/寿木けい 第4回 ひんぴんさんになりたくて。
本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す、という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。
先日、笛吹市(山梨県)の金川(かねがわ)のあたりを走っていたら、〈県指定文化財 十一面観音菩薩〉という看板が目に入った。
滋賀の向源寺まで、十一面観音像を見に行くほどの仏像好きだ。すぐに引き返し、案内板を追って車を走らせた。
車は桃畑の間を縫って、奥へ、そのまた奥へと誘われる。しかし、お寺らしき建物は見つからず、ついに案内板も途切れてしまった。同じ道を三度通って観念した。ひとに聞こう。初夏の日差しが右頬を刺していた。
スピードを落として、家の前で作業をしている男性に声をかけた。
「じゅーいちめんかんのーん?」
男性の声が伸びる。
「あ、はい、仏像の」
と私。
男性はちょっとトイレといった様子で家の中に入ると、入れ替わりに、女性が現れた。エプロンにつっかけ姿。私と同じくらいの年齢だ。
彼女は、付いてきてと誘うような仕草で小走りすると、私を草むらに誘導し、車を停めてとジェスチャーした。
「多分、あれだと思います」
彼女が指した先には、小さな公民館のような建物があった。
「とりあえず、行ってみましょうか」
こうして彼女に先導されて歩き出したそのとき、集団下校の子どもたちが向こうからやってきた。うち二人は、彼女のお子さんらしい。
ほとけさまぁー?
いっしょにいくー!
午後のひと時を御堂で静かに過ごす目論見から一転、子どもたちをぞろぞろ引き連れて、いざ、公民館に着いた。
「鍵をもらってきます」
彼女を待つ数分間、子どもたちは打ち上げ花火を待つようにはしゃいでいる。
三分後、彼女が男性を連れて戻って来た。農作業中と思しき分厚い手袋の掌(手のひら)に、鍵束を握っている。聞けば、この男性が、今年度の仏様当番なのだそうだ。
男性が鍵を差し込み、ギシギシと回す。全員の視線が扉の奥に注がれる。
そこには、ゆったりとしたお姿の観音様が、少し窮屈そうに立っていた。
子どもたちの中で一番大人っぽい女の子が、これってなに? と聞いてきた。私が説明書きを噛み砕いて読んであげると、おおーとか、へえーとか、可愛らしい歓声があがった。
肝心の頭上の十一面は、朽ちたか焼失したか、すっぽり空っぽだった。それも含めて、この仏様の生き様である。
「もう何年も、毎日この道を通っているのに、私も子どもたちも、見たことなかったです。ありがとうございます」
お母さんが言った。
「そんなそんな、こちらこそ」
鍵の男性にもお礼を言おうと姿を探すが、見えない。
「桃農家は、今、忙しいですから」
そう彼女が教えてくれた。
何度もお礼を言ってから、私は来た道を戻った。視界一面に、ずんぐりとした桃の木が広がっていた。仏様はこの蜜の香りを、きっと、知らない。
サルトルは、他者に呼びかける行為を、バスにたとえて表現した。
今まさに出発したバス。そこへ、慌てて走ってきた人が手を伸ばす。その手を乗客がつかみ、引っぱりあげて乗せてやる。二人の手が触れあったとき、二つの意志が、自由が重なり、同じ体験(バスに乗る)へと開かれる。
そこにあるのは、乗客の親切心と気前のよさ。走ってきた側には、他者に体を預ける信頼と思い切りのよさがある。
サルトルはこの続きを、芸術との関わりへと展開させていくが、私はエッセイストとして、ちょっと違った道へ入る。
二人の間には、運命(大袈裟だがあえて使う)の知らない一面に身を投じる好奇心が、瞬時に生まれたのではないか。
そしてこんなとき、ルーティンを外れることに臆さないのは、きっと、女だ。
「なんか、おもしろい日だったな」
思い出し笑いして、鼻歌で皿を洗う。
私はあの日のことを細く、長く、覚えていると思う。
豊かな体躯を持て余した観音様のこと。控えめに、でも、ウキウキした足取りで先導してくれたお母さんの後ろ姿。
彼女の中に、私と同じ、おもしろがりのメガネをかけた茶目っ気を見つけたこと。お名前を聞くことも、名乗ることさえも忘れて、夢中だったこと。