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ホテル+バカンス、銀座に泊まる、という選択
#銀座でホカンス @ミレニアム 三井ガーデンホテル 東京
「ホカンス」とはホテル滞在そのものをバカンスとして楽しむこと。にぎやかな都会の真ん中での1泊2日、意外と心も体もリセットできちゃうのです。今回は作詞家の児玉雨子さんが、リゾートではなく銀座のホテルで初体験、掌編小説を書き下ろしてもらいました。
「午後二時半の余白」文・児玉雨子

スケジュールアプリを埋めるのが好きだった。塗り絵のようにひとマスずつ空白を予定で染め上げた画面は、私という存在が空っぽではないと証明してくれるようで。
休日の予定を一緒に埋めるはずだった友人が、当日になって体調を崩してしまった。まずは三越でラグジュアリーブランドでも見よう、たくさん入るスーツケースも欲しい、それからマッサージを受けて、あとやっぱりGINZA SIXも立ち寄りたい、夜はお肉をお腹いっぱい食べよう。あれだけやりたいことを列挙していたのに、ふとひとりになると何が欲しくて、何がしたくて、食べたかったのか、はち切れそうなほど膨らんでいた欲望がふっと煙のように姿を消してしまって、頭の中がぽっかりと空いてしまった。それでも戦利品もないまま手ぶらでいられない、と地下鉄の階段を上がってすぐの鳩居堂で目についた季節ものの絵葉書を買った。淡い空色にピンクの桜と東京タワーの絵柄は、「戦利品」と呼ぶにはあまりにもうららかすぎる。


天井の高い受付で、にぎやかに買い物へ繰り出す人たちに囲まれながらひとりでチェックインの手続きを済ませる。せっかくのホカンスなんだから、と友人が予約してくれた部屋は、ベッドもクッションも化粧水の瓶もトレイも壁の装飾も、白や銀色に揃えられてしずやかに光っていた。砂漠のような都会のオアシスというより、鬱蒼としたビルの森の中にある湖、といった静謐(せいひつ)。息をひそめて、ゆっくり吐き出した。バッグとスプリングコートをそっと脱いでクローゼットに掛ける。どこにも水面なんてないのに、この部屋じゅうに波を立てないよう、ひとつひとつの動作がやけに丁寧になってしまう。
整然と並べられたクッションをすこし申し訳ない気分でどかしながら、ソファに腰掛けて数年前に買った小説本を広げる。家を出る直前に友人から連絡が来て、とりあえず何か時間を埋められるものを、と本棚から咄嗟(とっさ)に持ってきたものだった。時間の余白だらけだった学生の頃はどこでも本を開いて、いつまでも夢中で読み耽っていたのに、ここ最近はそんなふとした時間さえ、用事や仕事にまつわる勉強をみちみちに詰め込んでいた。読書ひとつとっても電子書籍ですきま時間に読めるライフハックものを選んで、こんなふうに一冊分の幻想文学、厚さ数センチの世界、四六判の中で起こる変革と向き合うこともめっきり減った。私の現実が今すぐあざやかに塗り替えられて、行間にまで劇的でラメたっぷりのきらめきが横溢(おういつ)するような、そんな何かばかりに渇いていたから。

ページの上に、レースカーテンに濾過された光が転がり落ちる。活字のように並んだ背の高い建物に囲まれて、それらをきょろきょろ見上げて目を回してばかりいるから、この街にもこんなにやわらかな陽光が降り注いでいることに気づかなかった。ページをめくるたびその陽だまりが悠然と寝返りをうって、こちらまで眠くなってくる。ベッドの底に身を投げるような重たいものではなくて、子供の頃の、五時間目を包んだなめらかな眠気だ。あるいは、おばあちゃんの家でたくさんお昼をふるまってもらった後のそれ。そういえば、あの絵葉書はおばあちゃんに送ろうかな。コロナで全然会えてないし。予定が立ち消えてすきまができた頭の中には、いろんな言葉が形を結んではほどけ、またあらわれては散ってゆく。

ぴんとシーツを張られたベッドに、そっと横たわる。小さなパールの装飾が施された時計は、午後二時半を指していた。時計の針が夜に向かって滑り落ちてゆく、その寸前。今夜も街はきらきらとにぎわうだろう。横になって見やったレースカーテン越しの銀座の空は、まだまだ空いている。