養子縁組で子供を授かった池田麻里奈さん【前編】|工藤まおりが聞く、それぞれのチョイス
カップル間でのコミュニケーションや心理学を学びながら、フリーランスのPR・ライターとして活躍する工藤まおりさんが、結婚や妊娠について様々な選択をした女性たちにインタビュー。今回は、28歳で結婚し、不妊治療の末に養子縁組で子供を授かった池田麻里奈さんに話を伺いました。
28歳で結婚。すぐ妊娠できると思っていた
「当時の平均初婚年齢に近い28歳で結婚し、そこから妊活をスタートしたのですぐ妊娠できると思っていました」と話す池田さん。
2021年の人口動態統計では、第1子出生時の母親の平均年齢が30.9歳。誰しも20代のうちに妊活を始めれば、妊娠で苦労するとは思わないだろう。
しかし池田さんは28歳の結婚後に妊活をはじめ、10年以上の間不妊治療を行ったが、なかなか子供を授かることはなかった。そして、43歳の時に特別養子縁組を行い、現在4歳の子供と夫の3人で暮らしている。
今回は池田麻里奈さんに、養子縁組をすることになった経緯と、実際に子供を迎え入れた時の話を聞いた。前編では養子縁組を決断するまで、後編では実際に養子縁組をした子供との日常について触れていく。
28歳で結婚。その後、妊活で子供は授からず
結婚した当初から子供を授かりたいと願っていた池田さん。
周囲からの「田舎に帰ってくる時は、子供を抱っこして帰ってきてね」という期待の声には、笑顔で「待っててね」と伝えた。これから夫と一緒に作っていく家族像に胸が高鳴った。
しかし、そんな思いとは裏腹に、なかなか妊娠することはなかった。
ーー28歳で結婚し、その後、妊活。現代の女性の平均初婚年齢よりも若く結婚し、妊活されていたんですね。
「そうなんです。結婚の次は子育てだと思って、当時働いていた経理の仕事を辞めて妊娠に備えたんです。でも3ヵ月経っても妊娠することがなかったので、出版社に就職しました。そのまま働きながら妊活したものの、妊娠することはありませんでしたね。
当時『妊活を初めて2年子供ができなければ、不妊を疑いましょう』という話を聞いたので、ちょうど2年後の30歳になったタイミングに、産婦人科で検診を受けることにしました」 ※現在、日本産科婦人科学会では不妊の定義を1年としている。
ーー検査を受けてみた結果、いかがでしたか?
「夫婦両方とも特に問題がありませんでした。
お医者様からも『まだ若いので、大丈夫だよ』と声をかけていただいていたので、特に問題視はしていませんでした。その後も婦人科に通ったのですが、何も成果が出ず拍子抜け。
お医者様からは『大丈夫!』と励まされていたものの、不安だったので不妊専門のクリニックで受診することにしました。その時が31歳だったので、すぐに人工授精を開始。33歳年の2回目の人工授精で妊娠ができたのですが流産してしまって、その後、体外受精にステップアップしていきました」
ーー体外受精は、仕事との両立がむずかしいという話を聞きます。その間のお仕事はいかがでしたか?
「仕事のスケジュールが前もって決まっているのにも関わらず、急に病院の予定が入ってしまったり、採卵のための全身麻酔をするために急に仕事を休んだりして、周囲に迷惑をかけている自分が嫌になりました。不妊治療をしながらだと、責任のある仕事ができないんですよね。
キャリアステップも妊娠もないまま気づけば35歳になっていて、そのまま社会の一員でいていいのかと正直辛かったです」
子宮全摘出をキッカケに特別養子縁組を決意した
ーー子供ができなかったら、夫婦2人で楽しく生きていくスタイルもあると思います。なぜ子供が欲しいと思ったのでしょうか?
「そうですよね。不妊に悩んでいた時、過酷な治療までしてなぜ私は子供が欲しいんだろう、なぜ私は子供がいる家族がいいなと思うんだろうって自分に何度も問いかけました。
結果、自分が育てられた時の体験が根っこにあるんだということに気づきました。子供の時、ちょっと寂しい思いをしたり、もう少しそばにいて欲しかったり、悩みを聞いて欲しかったり。私自身、ちょっと寂しい想いをしてる子供の相談に乗れるような親になりたいなというのが根本的な思いとしてあったんです」
ーー池田さんは、何か寂しさを感じている子供に愛情を与えたかったんですね。
「でもそれって、親じゃなくてもできることに気づいたんです。
それで、乳児院や児童養護施設の子供に対してサポートを行うボランティアに参加するようになりました。死産を経験したので、赤ちゃんとか見るのは正直つらかったんですけど、子供達と触れ合うことにはやりがいを感じたので、やってよかったなと思います。ただ、できるならその子をずっと見続けられる親になりたいという気持ちも同時に湧いてきました。
そのままボランティアをしながら不妊治療は継続していたのですが、子宮腺筋症が悪化し42歳の時に子宮全摘出をすることになりました。手術が終わったベッドの上で、やっぱり親になりたいという気持ちに気づき、養子縁組をしたいと思いました」
ーー特別養子縁組は、夫婦2人の了承がなければ難しいと思います。パートナーさんはどのような考え方だったのでしょうか?
「元々養子については相談していたのですが、30代の時夫は『40歳までは不妊治療してみようよ』と言っていたんです。40歳を過ぎてからは『子供いなくても、2人で生きていければいいんじゃない』という意見に変わっていましたね。
でも、子宮全摘出をした時。きっと私は、死ぬときも子供を育てたかったと思うだろうと自分の気持ちに気づき、その思いを夫に伝えようと思い手紙を書くことにしました」
ーー手紙には、どのようなことを書いたのでしょうか。
「ただ『子供が欲しいから、養子縁組がしたい』とだけ言っても、理解しづらいと思うんです。
私自身が子供に対し、どんな思いがあるのか。今まで夫の仕事を応援してきて、自分のことのように嬉しかったということ。私は十数年間努力しても子供は授かれなかったけど、どうしても子供を育てたい。一緒にやりたいことをサポートし合うのが夫婦だと思ってるということを伝えました。
夫は手紙を読んで『一緒に特別養子縁組をしよう』と決意してくれました」
その後、とんとん拍子に夫婦で特別養子縁組の手続きを進めていくことになった。「夫婦でやると決めてからの動きは、驚くほどスムーズでした」と話す池田さん。
退院した1ヶ月後には児童相談所の面談に行き研修をスタートするものの、施設の子供には実親がいるため紹介できる子はほとんどいないという説明があったため、民間団体で特別養子縁組の登録を進めた。説明会や研修、家庭訪問を終え、待機登録をした。あとは連絡を待つのみ。
数日後、池田さんの携帯が鳴った。
後編記事では、養子縁組で子供を授かった話とその後について話を聞いていきます。
池田さんの著書はこちら
■『産めないけれど育てたい。 不妊からの特別養子縁組へ』(KADOKAWA)
養子を迎えて「育ての親」になる。10年以上もの不妊治療、2度の流産、死産。それでも育てることをあきらめなかった夫婦が、「特別養子縁組」を決意するまでの葛藤と、ドタバタだけれど幸せな子育てを、夫婦それぞれの視点から綴ったエッセイ。「新しい家族のかたち」として注目の「特別養子縁組」の貴重な実例。