SNSで答え合わせしてない? 他者の言葉の先に自分の思考を広げ続ける大切さ|松田青子エッセイ
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まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。
断定的な言葉が支持されるSNS空間に飲み込まれないために
数年前、旧「ツイッター」こと、「X」をよく見ていた。
でも、今ではあまり見ていない。
「X」を見ていると、情報がいち早く入るし、それに対する周囲の声などもすぐにわかる。すごく便利だし、「X」で学んだこと、気づいたことも多くある。
社会問題や、世の中の不条理な現象の数々に対して、同じような違和感や怒りを持つ人がたくさんいることが可視化されるのも、「X」のいいところだ。自分は一人じゃないと感じられるし、声のパワーがある。
ただ、「X」のスピードや、「X」そのものに慣れてしまうのが、途中から自分にとってよくないように感じはじめた。
たとえば、あるニュースを読んだとして、それについて自分の中でじっくり考える前に、周りの人たちの意見や考えが先に目に入ってしまうことで、そこで納得してしまい、自分の考えを深められなかったことなどないだろうか。
何かを読んだり観たりした時に、自分の中で感じたことをゆっくり味わったり整理したりする前に、「X」で感想を探してしまうことはないだろうか。おすすめされているアイテムをそのまま鵜呑みにして買ってしまうことはないだろうか。
「この人が言っているから正しい」、「この人のことを信頼している」と、誰かの言うことを信じすぎてしまうことも危険だし、類似のトピックに対して、「ある人がこの一件には反応しているのに、こっちの件には反応していないから信用できない」とするのも、短絡的だ。
人間は完璧ではないし、その時々、人それぞれいろんなことが起こっているのに、SNSでは、そこに書かれていないその人の実際の生活を軽視してしまう傾向があるように思う。そういう傾向に、実際に出会った人に対しても、思いやりや想像力に欠けた言動を見せる人が増えている一因があるような気もする。
また、これは状況や内容によっては正しい動きでもあるのだけれど、こういう出来事に対する反応はこうである、という「型」がある程度できあがっていて、同様の出来事が起こるたびに、反射神経に近い速さでそれに対する意見を書き込んでしまうのも、私もしていたことがあるのだけれど、自分が自動化されてしまうような感覚があった。
投稿に強めの言葉、断定する言葉を使うとより多くリポストされ、同じ内容でも柔らかい、逡巡や他の余地が混じる書き方をしていると、リポストされない。数字で表れるので、とてもわかりやすかった。
当時、友人たちと会った時や、仕事の打ち合わせなどでも、「X」で話題になっていることや、誰々がこう書いていた、誰々が炎上していた、など、「X」の話をしている時間が必ずあり、我々が実際に今ここで集っている時間を、こういう会話で埋めていていいのだろうかと、自分もそういった話をしながらも考えていた。
その頃取り組んでいた翻訳の締め切りがいよいよやばく、集中しなくてはいけなかったこともあり、「X」をほぼ見なくなり、そのまま今に至る(そのかわり、文字ベースではないせいか、そうスピードの速くない「インスタグラム」は見過ぎなほど見ている)。
誰かと違うからといって、それは脅威にはならない
ここ数年あたり、
「言語化してくださってありがとうございます」
このフレーズをちょくちょく目にするようになった。私のSNSにも、私の本の感想などでそう言ってくれる人たちが時々いる。
「言語化してくださってありがとうございます」
まず、そのフレーズを使った人は、誰かが書いたり言ったりしたことについて、自分では「言語化」をしておらず、でも、そのことについて誰かが書いたり言ったりしてくれてうれしかった、ということになる。
自分で「言語化」していなかった理由もそれぞれあるだろう。
同じように考えていたけれど「言語化」することを躊躇していた、とか、日常の中で感じる「もやもや」や「違和感」の原因がはっきりしていなかったので、「言語化」できなかったなど。
そのフレーズは、前述したような「X」で私が感じたことを考えると、延長線上で、生まれるべくして生まれた言葉のように思える。SNSが一般化したことにより、まず自分でしっかり考えてみる必要がなくなったのだ。
とはいえ、私自身もそんなにおしゃべりなほうではないので、「言語化」しないことはわりと多い。
ただ自分は書く仕事をしているので、「言語化」には慣れている。仕事じゃなければ「言語化」したくないことでさえ、書くためには「言語化」する。「言語化」すると決めたら、一つの事柄において、いろんな書き方を考えられる。なので、口に出さない時でも、頭の中では「言語化」できている。
そういうこともあり、
「言語化してくださってありがとうございます」
の気持ちはあまりわからなかった。
でも、今年、
「言語化してくださってありがとうございます」
がしみじみと腑に落ちた。
それは、6月に行われた、韓国のアイドルグループ〈NewJeans〉の、はじめての東京ドーム公演でのことだった。
私は二階席に座っていたのだけれど、ファンミーティングと称されたこのコンサートは、メンバーたちの存在だけでもすごいのに、最初に長めにDJタイムがあったり、持ち歌のほかにも、メンバーそれぞれがカバー曲やファンのために自作した歌を披露したりと、構成や演出にも凝っていて、圧倒されてばかりだった。はじめから終わりまでずっと、気持ちが飽和状態だった。
この時、私の気持ちを一つ一つ「言語化」してくれたのが、私の席の隣に座っていた、大学生くらいの女性二人だった。
くだんの長めのDJタイムには、
「これは一体…」
若干戸惑いつつ、
メンバーたちが登場すると、
「え…本当にいる!?」
と大興奮。
はじまる前には、二階席の自分の席で、
「こんな近くで見れるなんて…」
と感極まっていたのに、途中で急に一階席の人たちを指差し、
「あの人たちがうらやましい…」
そして、常に、
「かわいい、かわいい!!」
「すごい!!」
を連発。
私は彼女たちとまったく同じ気持ちだったので、すべて言葉にして言ってくれたことがうれしくて、さらに自分の気持ちを再確認することもできて、
こ、これが、
「言語化してくださってありがとうございます」
ってことか!!!!!と、コンサートの最中に感銘を受けていた。やっぱり自分と同じ思いの人がいてくれるとうれしい。
ただ、このフレーズで気になるところは、誰かが「言語化」してくれた、そこで終わってしまっていないかということだ。
誰かが「言語化」してくれた、そこを起点にして、自分の思いや考えを広げることができたなら、それが一番だと思う。
そのためには、自分があらゆることに対してどう思い、どう感じているか、普段から意識しておくことが大切だし、自分との時間を深めるために、時々は、SNSで誰かの意見や感想を見て「答え合わせ」することをやめてみるのもいいのではないだろうか。
誰かと自分の意見が違うからといって、それを脅威に思ったり、心配したりする必要もまったくない。その人と自分は違う人なのだから。自分にとっての「正解」が、誰かに倣った「正解」になってしまわないように、自分自身を見つめてみてほしい。
text_Aoko Matsuda illustration_Hashimotochan Edit_Hinako Hase