石丸でもひろゆきでもない。自己責任の本当の意味から考える今の日本に必要なこと
東京科学大学(旧・東京工業大学)リベラルアーツ研究教育院教授。京都大学大学院博士課程修了。専門は南アジア地域研究、日本思想史。著書に、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日文庫)、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『思いがけず利他』(ミシマ社)など。
成蹊大学文学部現代社会学科教授。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。専門はメディア研究。著書に『炎上社会を考える』(中央公論新社)、『ネット右派の歴史社会学』(青弓社)、『デモのメディア論』(筑摩書房)、『フラッシュモブズ』(NTT出版)など。
頑張れ、と言うからには政治的な責任が伴う
中島岳志さん(以下、中島):前編で見てきたように、頑張ろうという応援型が共感を呼び、支持を集めた石丸氏。
ただ、「頑張れ」とはいうけれど、その出口が自己責任という新自由主義的なところにいきつき、結果として“セコい自己責任論”に加速度的に拍車をかけてしまうという構造があると感じています。
伊藤昌亮さん(以下、伊藤):「頑張れ」と言うからには、実はその背後に責任が伴うんですよね。
みんなで頑張ろうとなった時に、頑張る人がどのようなサポートを受けられるのか、頑張ってもダメだった時にどうなるのか、頑張る人同士の利害をどのように調整するのかなど…。
社会や政治への期待を持てない今の日本で、石丸氏の「一人ひとりが頑張ろう」といった政治以前の自己啓発的な語りが多くの支持を集めたとしても、実際に頑張る環境を作るためには、必ず政治が必要になるんです。
例えば、子どもができても仕事を続けられるとか、途中で失職してもまた勉強ができるとか、ずっと頑張り続けられる環境を責任を持って提示するためには、前政治的な自己啓発論では何の解決にもならない。
にも関わらず、そういった見通しが石丸氏の中にはない。少なくとも、現時点では「とりあえず頑張れ」と言っているだけ。今後、石丸氏のようなやり方を突き詰めて行った先に、その点は間違いなく問題として噴出します。
じゃあ、再分配はどうなのかというと、原資が増えない今の日本社会の中で、そこだけに注力しても若年層は受け入れることはできない。
再分配はもちろん必要な考え方なのですが、現在の日本のリベラル派は、再分配と弱者支援という点に重きを置きすぎて、経済成長に関する発想が弱い側面があります。経済成長も停滞し、サバイバル状態では、再分配批判がでるのも無理もありません。
生きづらさを抱える人を取りこぼさないエンカレッジ型の社会
中島さん:2021年に出版した『思いがけず利他』(ミシマ社)でも書いたのですが、“利他”というと、みんな何かをしてあげることだと思いすぎている側面があります。
リベラル派の中には「弱者がいて、その人のために何とかしてあげなきゃ」、それが支援だと思っている人が多いと思うのですが、本当の支援というのは、全部やってあげることではなく、その人の持っているポテンシャルをうまく引き出す。そういう在り方だと思っています。
例えるなら、NHKの『のど自慢』のバックミュージシャンみたいな在り方が理想だなと(笑)。イントロ中に歌い出したり、キーがずれた状態で歌う人が出てきた時に彼らはその人の歌に合わせにいくんですよ。
そうすると、本人は歌いやすいので、すごく盛り上がって、会場中が熱気に包まれ、大きな拍手が起きる。
つまり、大事なことは、その人に寄り添いながら、持っている魅力を引き出すエンカレッジ型の支援。私はこれが真の支援、利他的な行為だと思っています。
他者に何かをやってあげることで自尊心を満たしていくという方向への思いが強すぎると、逆に当事者を傷つけてしまうこともあります。
伊藤さん:まさしくその通りで、社会保障の役割として、私は「支援」と「投資」という2種類の考え方があると思います。
「支援」はいわゆる従来の社会保障でイメージされる弱者と言われる立場にいる人へ、「投資」は現役世代で、ライフコースの真ん中にいる人たちへ向けられる社会保障。
諸外国では現役世代に対する社会保障の支出が大きいのですが、日本の場合は前編でも説明したように、現役世代の男性は企業、子どもや高齢者は女性、地方の中小企業は自民党が保障をしていて、現役世代への福祉給付は少ないんです。
支援の対象とされるのは、高齢者や失業者といった特定可能な弱者です。そこには、サバイバル状態に置かれている若者は含まれないわけです。
つまり、政治的な領域から上から目線で、あなたは弱者ですと決めて、そこに再分配していくようでは、漠然と弱者性を帯び、行き詰まり感を抱えている現代の若者たちには届かない。
今、求められているのは、選別的な弱者支援ではなく社会的投資で、社会保障自体の考え方を転換すべきだと思います。
中島さん:子どもを持ったらリスクとか、何かをやったらリスクだからやめておこうという発想になってしまい、人生の転機で思いきったチャレンジができる社会になっていないんですよね。
例えば、子どもを持ってもやりたいことをやりたいと思った時に、それをバックアップしてくれる支援や資金の提供があるといった、現役世代に投資するエンカレッジ型の社会に変えていくことが、私たちが次に踏み出すためには重要だと考えます。
技術の発展が自己責任論の加速と関係している?
伊藤さん:ただ、新自由主義への移行というのは全世界的に見られる現象で、その転換を否定をすることはできないんですよね。
その背景にあるものは技術革新に伴う産業構造の大きな変化です。
これまでは、正社員としてライフコースが決まっていて、社会の真ん中にいる人はずっと真ん中でいられた。その構造の中で弱者性は明確に定まり、従来の福祉国家のモデルでうまく機能していたんです。
しかし、工業化、情報化が加速し、生産や産業の仕組みが変わっていく中で、社会の真ん中が今ははっきりしなくなり、かつての福祉国家モデルは行き詰まっている。
昔は、失業は特別な状態だったけど、失業だけではなく、非正規雇用、派遣業務というのが恒常的な状態になっていますよね。フリーランサーも増えていて、働き方やライフコースが多様化し、抱えるリスクも多様化しています。
新自由主義の台頭というのは、そういった変化に連動した現象だと感じています。
一人ひとりが何十年も頑張っていくためには、社会や産業の多様化に合わせて、保護やバックアップできる体制を作る。社会の真ん中から進路転換をしたり、脱落した時に頑張り続けることができる社会システムを作る必要がある。
その先に、自分の人生に責任を持つ、自分らしくあるといった自立の考え方、自己実現といった本当の意味での自己責任のデザインができてくると思うんです。
新自由主義への移行は防げないけれど、単なる市場競争に委ねるのではなく、別の形でいろんな手当ができるはず。
中島さん:市場というのは、国家の介入をはじめ、非市場的領域によって成り立っています。そうでないと、富の偏在が激しくなりすぎて、市場が立ち行かなくなってしまうからです。
この非市場的領域を、国家だけではなく、コモン(共有資源)などにも広げ、分厚くしていく。お金がなくてもどうにかなる社会を作っていくほうが成長に繋がると思っています。
個人も企業も、未来に対する不安があるからどんどん溜め込んでいく方向にいく。どんどん投資に回していくには、ある程度未来に対して安心感のある社会を作っていく必要があります。
この安心のイメージを、これまでの福祉国家とは違った形でどう提示できるかというのがとても大切な課題だと思います。
責任とは、他者や社会に対して応答すること
伊藤さん:日本の現状はどうかというと、リベラル派は従来の福祉国家の枠組みに縛られてしまっているし、保守派は貯蓄から投資へと言い、市場で頑張ってください的なスタンスで責任放棄をしている。
そんな中で、ひろゆき氏はどんな姿勢で向かっていけばいいのかということを彼なりに提示しています。
石丸氏は、新自由主義的発想の先に建設的なプランがないと批判されるけれど、彼だけではなく、私たちみんなが、こうした大きな社会変化の中で「どう制度を変えていけばいいのか」という巨大な文明史的な問題に立ち向かうべき時なんだと思います。
そのためには、やっぱり人間観を考え直さなくてはいけない。「人間にとって、自立、自由、責任って何なのか」、「どういうことをやっていけばいいのか」。これはすぐに解決できる問題ではなく、100年くらいかけてゆっくり変えていかなくてはいけないこと。
中島さん:そうですね。私は、戦後の日本社会で育まれてきた自己責任をベースとした人間観を今一度見直さなくてはいけないと思います。
戦後の論壇に大きな影響を及ぼした政治学者の丸山眞男(※)が「それぞれに意思があり、理性的な意思に基づいた選択ができなくてはならない。その選択したことには責任が伴う」と言ったように、戦後民主主義の中で、「個」を大切にしていこうという流れがリベラル派を中心にあった。
これが、今の自己責任論のルーツのひとつであることを踏まえたうえで、考えてほしいことがあります。そもそも責任とは何でしょうか? “責任”は英語で“responsibility”、つまりレスポンス=応答することまでを意味する。「自分さえよければ」ではなく、社会や他者に応答をすることまでが本来の責任の在り方なんです。
それを今の日本社会は見失い、自己責任論という言葉が独り歩きし、その結果としてひろゆき現象、石丸現象をはじめ、さまざまな新自由主義的なものが登場してきた。
でも、今求められているのはそのどれとも違う人間観であり、それをベースとした新たな社会設計です。本当の意味で責任を果たす、応答し合う人間観の先に、互いをケアし合うような、これから見据えていきたい新しい社会があるのではと思います。
※丸山眞男|日本政治思想史を専門とする政治学者。「自立した個人」の大切さを説いた。
illustration_Natsuki Kurachi text&Edit_Hinako Hase