【コラム】“甘くない“思い出のショートケーキ|漫画家・ほしよりこ
あなたは忘れられないケーキがありますか? 有名なお店のとびっきりおいしいものもあれば、印象的なできごととともに記憶に刻まれたものかもしれません。漫画家のほしよりこさんの思い出のショートケーキは、甘くおいしい余韻と相反する思い出から成り立っているそうです。
漫画家・ほしよりこの甘くない思い出のショートケーキ
生クリームが好きです。母が使っていた「きょうの料理」に載っているケーキの作り方の口金から絞られた生クリームのツノが誇らしげにつんっと立っている写真を見て味わいを想像したものです。ショートケーキには生クリームをたっぷり絞ってほしい。スポンジはできるだけ軽く、間にもたっぷり生クリームを挟んでほしい。
私が思い出すのは親戚がバイトしていた喫茶店の巨大なショートケーキです。背が高く、イチゴが大きく、イチゴにバランスを合わせるかのように生クリームもたっぷりつんっとのっかっている。バイトの彼女は余ったケーキを好きなだけ持って帰れるので分けてもらえた時は夢のようにうれしかった。お店にもお邪魔したことがありますが、容赦なく気前の良い大きさのケーキに似つかわしくなく、店主がそこはかとなく意地悪で、トイレには「トイレットペーパー以外のものは流すな!!」「詰まったら弁償!!」とか書き殴った紙が乱暴に貼られていて、お気持ちは察するが、攻撃的なメッセージに居心地悪くなりました。そのうちとうとう店のトイレを使わせなくなり、近所の公衆トイレを案内するようになったそうです。
もう一つ思い出すのはパティシエの友人が誕生日にくれたショートケーキ。牛乳の甘味をたっぷり含んだ生クリームのふんわりと軽い口溶けと余韻が素晴らしかった。私がムラングシャンティを大好きだと知っているその友人は、何かというとそのケーキ屋さんのムラングシャンティをお土産にくれました。私はそこのケーキを食べて「洋菓子は料理ではない。化学だ」と感じ、乳脂肪の仕事、糖の役割、たんぱく質の固まる温度など、
見た目と舌の上でこんなに五感を刺激されるなんて…と一口ごとに感動の渦に飲み込まれました。
それで一度そのケーキ屋さんに行ったら、店の前に「写真お断り!!」と書き殴られた紙が乱暴に貼られ、ショーケースにまで「見るだけ禁止!!」「写真撮るな!!」と書かれてケーキよりそちらが気になり、ケーキを買いに来たわけだし、写真を撮るつもりもないのに、落ち着いてケーキを選ぶ余裕が自分の心から薄れていくのです。あげく店の人に「早く決めてくれませんか」と急かされ「ショ、ショートケーキ一つください」と咄嗟に答えたなら「2個以上からしかお売りできません」と言われて固まって、じゃあもう一つという余裕もなく店を出たことを思い出します。
ショートケーキは人生の中で一番食べてきたケーキだと思うし、有名パティシエのも話題の店のも食べたと思うのですが、そういうのはほぼ覚えてなくて、いざ思い出そうとすると、こんな強烈な甘くない経験だけが蘇り「もう一度あれ食べてみたい…かもしれない」と思うのでした。