〈鈍考 / 喫茶 芳〉のカウンターに立つファンさん。畳にすることで家具を減らせたというミニマルな空間に、陶芸家・熊谷幸治の土器や木工作家・吉川和人のサイドテーブルが。カウンターの後ろの作品も見ごたえあり。
設計は幅さんが依頼するならこの人と決めていた建築家・堀部安嗣さんが手がけた。寺院の額縁庭園を思わせる眺め。
「どこに座ってもいい自由さも持ち合わせます」
読書の時間
1. 発注主は自分だからこその、趣味に満ちた本棚もある。
依頼主の意向を受け本を選ぶのが選書家の仕事。「ここは自分が長年かけてアーカイブしてきたものを、ジャンルごとに並べました」。イングランドのサッカーチーム、アーセナルの書棚に幅さんの人柄を知る。大量の付箋も気になる。
2. スマホを引き出しにしまい、日常のスイッチをオフにする。
入ってまず鞄や上着を預けるクロークには、スマホをしまうための鍵付きの引き出しもある。もちろん強制ではないものの、本とコーヒーが待つ空間を堪能するためには、提案に素直に従ってみたい。右上に並ぶのはコーヒーにまつわる本。
3. ただ本と向き合うことだけを考えて選び抜いたチェア。
家具はなるべく置きたくないという幅さんが手に入れたのは、オーレ・ヴァンシャーによるコロニアルチェア。「本を読むことだけを考えて、さんざん座って決めたもの」。壁の絵は寺崎百合子による、サラエボで空爆を受けた図書館を描いた鉛筆画。
4. 本に集中するための時間制。本は読んでも読まなくても。
「本を読むのに時間を制限することはネガティブな印象があったけど、大阪や神戸で携わった〈こども本の森〉での経験から、時間の制約は逆にとても集中して本に向かうことを知りました。とはいえ本は読んでも読まなくても、自由に」
長年にわたり集めた渾身の蔵書3000冊と共に過ごし、ヒューマンスケールの心地よさを思い出させるための場所。
長年、東京を拠点にしてきた幅允孝(はばよしたか)さんが新たな拠点を京都に構えた。
「東京はどうしても回転数が速すぎる。これからも本を扱い続けるなら、時間の流れが遅い場所が必要だと。そのための分室を作ろうと考えたときに、出合ったのがこの地でした」と幅さん。京都・左京区の山間にあって、寺の檜林を借景に、川のせせらぎを聞く贅沢なロケーション。
「建築家に依頼したのは3000冊の本が置けること、喫茶もやること、時間の流れが遅い場所ということだけ」。かくして手を伸ばせば届きそうなほど目の前に豊かな自然が広がり、整然と本が並ぶ、本とコーヒーのための空間が完成した。ずらりと並ぶ蔵書を手に取り、ネルドリップで淹れた濃厚なコーヒーを味わう、完全予約制の私設図書室にして喫茶室。
「テクノロジーのスピード感や回転数の高さに対して、人間は鈍くてもいいんじゃないかという意味を“鈍”に込めました。遅考性を持つ本と、時間をかけて淹れるコーヒーと共に、自分にとっての心地よい場所を見つけて回転数を落としてもらえれば」
コーヒーの時間
1. 深煎りの豆を焙煎するための、手動式手廻しロースター。
「コーヒーを飲むうち、淹れることに興味が湧いて。その流れで焙煎にも取り組むように」とファンさん。惜しまれつつ閉店した〈大坊珈琲店〉の大坊勝次さんの講座で学び、〈フジローヤル〉の手廻しロースターも大坊さん監修のものを使用。
2. とろりと濃厚な味わいを目指し、ネルドリップを愛用する。
大坊さんのコーヒーに惚れ込んだというファンさんはネルドリップひと筋。そのコーヒーは深く濃く、まろやか。ぽたぽたと落ちるように注がれるお湯を眺めていると、不思議な穏やかさに包まれる。自分のための一杯を待つ楽しみがある。
3. 淹れるひとときを愛おしく感じさせる道具選び。
〈タカヒロ〉のコーヒードリップポット、〈富貴堂〉の銅のコーヒーサーバーなど、コーヒーを淹れるための道具は手になじみ、見ても美しいものを選ぶという。ちらりとのぞいたカウンターの内側にも余計なものはなく、美意識が満ちる。
4. 一杯のコーヒーと向き合う心まで研ぎ澄ませる、器の持つ力。
「カップ&ソーサーの繊細な作りが、口当たりも見た目もゆっくり楽しむ気持ちを起こさせてくれます」と〈大倉陶園〉の器を愛用するファンさん。器が変わることで、味わいはもとより、自分自身の姿勢も変わることに気づかされる。
豆を選び焙煎することから、淹れ方、器や道具まで。すべてはゆったりと流れる時間をもたらすための大切な要素。
読書のための心地いい場所づくりには、コーヒーが一役買ってくれるのではないかと」と幅さん。用意したのは一枚板の端正なカウンターと、時間をかけて淹れるネルドリップコーヒー。〈鈍考〉には空間を共有する〈喫茶 芳〉が併設されていて、図書館の利用には一杯のコーヒーも含まれる。90分を過ごすうちのどこかでオーダーする仕組みだ。喫茶を受け持つのは、かつて東京で間借りの喫茶を営んでいたファンさん。
「コーヒー豆はイエメンやインドネシア・スラウェシ島のものなど、その時々で。手廻しのハンドロースターで自家焙煎しています。じっくり淹れるコーヒーの滴るところを見る時間にも身を委ねてもらえれば」
〈大倉陶園〉の繊細な器で供されるコーヒーは、とろりと深い。
「ゆっくりと味わってもらうため、冷めてもおいしいように、高すぎない温度のお湯で淹れています」というファンさんの所作も、選び抜いた道具たちもまた美しい。すべてにおいて時間の回転数を遅くするための心配りがちりばめられているのだ。
photo : Yoshiko Watanabe text : Mako Yamato