祈りながら、パンを焼く いつかは訪れたい憧れのパン屋。夫婦で営む街のベーカリー、石川県・中能登町〈月とピエロ〉へ。

FOOD 2020.03.08

能登半島の根元、石川県・中能登町に、全国のパン好きがいつかは訪れたいと憧れるパン屋がある。〈月とピエロ〉。一度聞いたら忘れられない名のその店は、まだ空にぽっかりと月が浮かぶ時間から、静かに仕込みを始めていた。

中能登の集落に漂う、自然酵母のパンの香り。

深夜2時。寝静まった集落の中に、ぽつんと灯りがともる小屋があった。外はまだ寒い。中に入ると、窯から放たれる熱と酵母の香りに、ふわりと包まれた。なぜか、2020年の光景には思えなかった。冷蔵庫やパン練り機など、電気を使う器具はそこここにあるのに、ぼんやりとした光の中でパンを捏ねる姿は、何百年も変わらない人間の営みそのものだ。人は命を繋ぐためにパンを焼く。そんな当然のことに思い当たる。

店主の長屋圭尚さん。
店主の長屋圭尚さん。

長屋圭尚(ながやよしひさ)さんのパンは、樹皮のようにバリッとワイルドな皮と、するすると喉を通る、圧倒的な水分量の生地が特徴だ。粉と水の比率はおよそ1対1。発酵機から出したばかりのパン種は、ぷっくりと発酵し、動かすたびにフルフル揺れる。それを最低限の手数で丸めてゆく。「生地にストレスをかけたくないんです。酵母で引き出した小麦の生命力を、できるだけそのまま食べてもらいたい」だから、圭尚さんのパンはものすごく大きい。

焼きたいのは、体が素直に受け取れるパン。

大きいまま、高温で一気に焼きあげて、水分を閉じ込める。焼きたてはみずみずしく、2日目は水分が程よく飛んでしっとり。3日目、4日目と日を重ねれば、皮の香ばしさが生地に移り、どんどん味わい深くなる。遠路はるばるやって来て、塊のようなパンを買って帰る人もいる。時間をかけて、ゆっくり味わう。それが理想的な食べ方だ。店ではパンを圭尚さんが、販売と焼き菓子を妻の由香里さんが担当している。

ドーナツを揚げる由香里さん。
ドーナツを揚げる由香里さん。

能登出身の二人。最初にパンに関わる仕事をしていたのは由香里さんだった。その頃、圭尚さんは公務員。だが、由香里さんに天然酵母パンの本を贈ったことを機に自らパン作りにのめり込んでいく。「あるイベントで自分のパンを売った時、楽しさが爆発してしまったんです。これを続けたい。心に正直に生きたい。そう、強烈に思って仕事を辞めました」圭尚さんは大阪の人気ブーランジェリー〈ル・シュクレクール〉の門を叩く。だが勤め始めて2年目、一緒に大阪に来ていた由香里さんが体調を崩し、やむなく能登に戻ることに。一旦、閉ざされたかに思えたパン職人の道。それを、圭尚さんは強い意志で切り開いていく。

「能登に戻ってからは、実家の家庭用オーブンでパンを焼き続けました。生地の発酵も、成形して焼くのも、小さなオーブン一台。でも、もともと誰かの真似をしたくて修業をしていたわけではなかったので、自分が目指す味をひたすら試作しました。焼いたパンは知人に配って回ったり。日々その繰り返し。そうやって、できることから始めていきました」味の確かさは口コミで広がり、やがて実家の納屋を改装して店を構えることに。

日をかけて食べて欲しい。時間が味を育てるから。

自分たちで壁を塗り、売り場を整え、2015年にオープンした。それから5年。パンのラインナップはほぼ変わっていないという。パンを焼く姿勢もまた、揺るぎがない。「僕らのパンを食べて幸せになってほしいんです」。圭尚さんと由香里さんは、柔らかいが芯のある口調でそう話す。「僕らにはパンを売っているという感覚はあまりなくて。〝届けている〞という方が近いかもしれない。誰かがおいしいと言ってくれたら。それで幸せになってくれたら。そう祈りながら焼いています」パンで幸せの輪をつくる。そんな小さな革命なら、自分たちにもきっとできる。そう信じる二人は、明日もまた夜明け前から、夫婦並んで工房に立つ。

車を走らせて訪れた人が一息つける空間。
車を走らせて訪れた人が一息つける空間。

〈月とピエロ〉

石川県・中能登町〈月とピエロ〉

量り売りするハード系食パンやクロワッサン、焼き菓子が並ぶ。パンは予約可能。2日前までに連絡を。
■石川県鹿島郡中能登町羽坂2-93
■090-1635-5919
■9:00〜15:00(売り切れ次第終了)火水休(イベント出店などで不定休あり。SNSで告知)
■4席/禁煙

(Hanako1182号掲載/photo:Testuya Ito text&edit:Yuka Uchida)

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