
クィア映画を自分の居場所と思える空間で。上映企画者・秋田祥|エンドロールはきらめいて 〜えいがをつくるひと〜 #19
毎回1人ずつ、映画と生きるプロフェッショナルにインタビューしていくこのコーナー。
今回のゲストは「Normal Screen」の屋号で性的マイノリティの人々の経験をとらえた映画や映像作品を多数紹介されてきた秋田祥さん。2015年から始まった活動の10周年の節目に、「Normal」という言葉に込められた想いや作品選定で大切にしていること、安心できる場づくりのために考えていることなどを伺いました。
フェミニストの友人と出会って、社会に意識が向き始めた
――まずは、祥さんのご活動の概要を教えていただけますか。
「Normal Screen(ノーマルスクリーン)」という名前で、主にセクシュアルマイノリティに関する映画、映像作品を上映しています。長編の劇映画から実験映画まで、時代や地域を問わず、いろいろな作品を紹介していますね。
個人としては他に、翻訳の仕事や映画にまつわるイベントのサポートなども行なっているのですが、主には上映会の企画と実施をしています。
――映画の自主上映会とは、具体的にどのように開催するのでしょうか?
まずは上映したい作品があって、その作品を上映できる会場を探します。Normal Screenは場所を持っていないので、大学や映画館、コミュニティセンターとイベントを共催させてもらうことも多いです。
そこから日本語の字幕をつけたり、アナウンス用の情報を準備したり、宣伝用のビジュアルを作ったり。
――ビジュアルまでご自身で作られているんですね、すごい。
お金がないからやっているだけです(笑)。助成金などを申請して資金が準備できた際には、素敵なデザイナーさんにお願いをしております。今は半々くらいの割合ですね。

――そこからいよいよ告知、イベント実施と進むわけですね。もともと「映画の上映会を開きたい」と思ったきっかけは、どんなところにあったのでしょう。
いろいろな理由があるのですが、大学で映画の勉強をしていて、映画館でかからないような作品を観る機会に恵まれたことは大きかったと思います。面白い映画が沢山あるし、それらをもっと共有したいと思う気持ちが根底にありました。
ただ、自分が「上映会」を意識し始めるまでには、すごく時間がかかったんです。今振り返ると、学生時代にも身の回りに上映会を開いている友人はいたのに、当時の自分は不思議なぐらい関心を持っていなくて。25歳ぐらいまで、いろいろなことを「当たり前」のように享受していました。政治にも無頓着でしたし。
――そこから一体どんな変化が起きたのか、気になります。ご友人の影響などもあるのでしょうか。
20代の時にクィア女性でフェミニストの友達ができたことは大きかったかもしれません。子どもの時から「自分の問題だ」と苦しい思いをしてきたセクシュアリティのことが、自分だけの問題ではないかもしれないと視野が広がって。そうしたら、世界中には何十年も、もしかしたら何百年も、いろいろな社会運動や楽しい活動をしている人がいることが分かってきたんです。そこから自分にできることは何だろう、と考え始めたことが、上映会を始めるきっかけになりました。
イベント会場を自分の場所だと思って欲しい
――「Normal Screen」という屋号はどのように決められたんですか?
「ノーマル」って、そんなにみんな気にしない言葉だと思うんですけど。でも、セクシュアルマイノリティの人の中には「普通」という言葉に苦しめられてきた人がすごく多いと思うんです。
――世の中から「普通」を押しつけられたり。
「そんなの普通じゃない」と言われたり。だから、自ずと「普通」という言葉に対して考えたり、向き合ってきた人が多いんじゃないかと思って、この名前をつけました。「ノーマル」と言いながらクセの強い作品やクィア映画(編注:性的マイノリティの物語を描いたり、LGBTQ +の当事者が制作に携わったりしている映画)を上映している様子を見て、クスっと笑ってくれるような人に届けば良いなとも思っています。
――素敵な名前ですね。上映活動を始める時、他に決めていたことはありますか?
情報のまとまったウェブサイトを作りたい、という気持ちは強くありました。マイノリティに関する物ごとって、情報が分散していることが多いので、自分が紹介してきた作品ぐらいは情報としてどこかに整理しておきたいなと。
それともう一つ、イベントを不定期でやる、ということも最初から決めていました。何ごとにもいつか終わりがやってきますが、自分の活動はせめて、2〜3年ぐらい続けたかったので、性格的に定期開催にしない方が良いなと思って。
――続けることが大事だと思ったのには、どんな理由があったのでしょうか。
やっぱり、セクシュアルマイノリティの人たちに届けたいという想いがありました。1、2回で届くものじゃないとも分かっていましたし、ある一定期間イベントが続いた時に「ここなら自分の体験に似た面白い映画を観られるかもしれない」と思ってくれた人の貴重な場所をなくしてしまうのが無責任な気がしたんです。セクシュアルマイノリティの人にフォーカスした映画イベントというのは、そんなに多くあるわけじゃないので。
――Normal Screenの活動が10年続いていることの意義の大きさを感じます。イベントは基本的に祥さんお一人で運営されているんですよね。
はい。でも、自分一人のプロジェクトとは思われたくなくて。というのは、映画館がそうであるように、お客さんにはイベント会場を自分の場所だと思って来てもらいたいんです。あとは何より、作品が主役だと思っていて。
イベント運営についてもいろいろな人に協力してもらいながら一緒に実現させている、という感覚なので、1人でやっているとは思ったことがないです。
――自分だったらもっと前に出たくなりそうなので、尊敬の気持ちが溢れます。
でも、そのあたりのバランスは難しいですよね。少しは中の人が見えないと、イベントに参加しにくいという場合もあると思うので。自分も時々は、来場者の方とちゃんと関わりながら活動をしていきたいと思っています。

人生を刺激し、解放してくれるクィアの歴史とネットワーク
――上映作品の選び方についても詳しく伺いたいです。これまで沢山の映画をご覧になってきたと思うのですが、上映をしたい作品と、純粋に好きな作品の違いはどこにあるのでしょうか。
上映をしたい作品は、必ずしも自分が好きな作品というわけではないと思っています。すごく意義深かったり、大胆なことをしていたり、絶妙なラインを歩いているような作品を観て「みんながどう思うのかを知りたい」「みんなで話し合いたい」という気持ちが芽生え、上映作品を選ぶことがあって。だから、自分が必ずしも、作品の内容に同意しているわけではないんです。
もちろん倫理的に危うい作品などには、トリガーウォーニングを準備しますが、そもそも作品を観られない状況よりは、観られた方が良いかな、という考え方ですね。
――ちなみに、祥さんが個人的に心惹かれる作品は、どのような作品なのでしょうか。
自分のイベント以外でも、LGBTQ+の歴史を感じられるような作品を観ると「沢山の人たちの人生の上に自分がいるんだな」と感じて励みになりますね。自分がそこまでストレスを感じずに、名前を出して今の活動をできていることの重みも感じますし。最近では例えば、2023年の11月に京都の同志社大学でQueer Vision Laboratoryと一緒に上映させてもらった、尾川ルルさんのビデオ作品『We are Transgenders. - 性別を越え、自分らしく生きる!-』(1998年)が印象に残りました。
上映活動をしていると性的マイノリティに関する大小の上映を国内で行なってきた人たちとの出会いもあり、刺激をもらっています。
――Normal Screenさんの上映ラインナップには、横のつながりも感じます。例えば日本では配給される機会が限られていて、且つ観客が気軽にアクセスできるわけではないブラジルや中東などの作品も積極的に上映されていますよね。
そうですね。クィアやLGBTQ +の国際的なネットワークや連帯には強い関心を抱いています。当事者も意外と忘れがちだと思うのですが、クィアの人同士が国境を超えて繋がって、刺激しあったり、サポートしあったりということは昔からあって。そうした横のつながりは、カテゴリーやルールに縛られがちな自分の人生を刺激し、解放してくれるんです。
そのような理由で、自然とさまざまな地域の作品を上映するようになりました。今も世界のどこかには、地下でしか集まれないクィアの人たちがいるという現実も、忘れたくないと強く感じています。
Normal Screenが上映したブラジル映画『虎の子 三頭 たそがれない』(グスタボ・ヴィナグリ監督、2022年)予告編。ここ数年、ブラジルのクィア映画の盛り上がりが各国の映画祭でも注目を集めているそう
――地域ごとに本当にさまざまな情勢や映画をめぐる状況があると思います。祥さんは各国の作品情報をどのようにインプットしているのでしょうか。
単純に映画祭や配信で作品を知ることもありますし、過去に上映させてもらった作品の関係者から別のアーティストを紹介してもらったり、日本の作家さんから、海外のレジデンシーに参加して出会ったクィア作家の情報を教えてもらったりもします。
自分で全部カチカチにプログラムを組むのは危険なことだと思っているし、リソースの問題もあり実際にはそれはできなくて。外部から提案された作品などもできるだけ取り入れて、紹介するように意識していますね。
――過去にはどのような作品で外部の方と連携されたのでしょう?
2018年にはタイでキュレーションされた短編クィア映画集をそのまま京都で上映させてもらいましたし、NYの非営利団体・Visual AIDSが世界約100か所で上映する短編集を、日本で上映したこともあります。自分が窓口や橋渡しのような役割を担っていると感じると、やりがいを感じますね。
――ちなみにそのような上映活動は、未経験でも興味があれば実施できるものなのでしょうか。
「Visual AIDS」に関しては、日本で他に上映したいという人がいれば、もちろん一緒に上映ができます。国内の作品では、劇場公開が終わった後に公式HPで自主上映を呼びかけているものもあるようです。
上映したい映画の作品名と「自主上映」というキーワードを検索窓に入れてみると、上映料などの詳細も含めた資料が意外と出てくるかもしれません。
配給会社がスルーした作品を、敢えて上映するチャレンジ
――単発の上映会で売り上げを立てるのはすごく難しいイメージがあるのですが、差し支えなければ金銭面の事情についてもお話を伺えますでしょうか。
お金との関係はすごく難しいですよね。Normal Screenでは配給会社が商業的に難しいから紹介しなかった作品を上映することが多いので、収益を上げるのがコンセプトレベルですごく難しいということは、初めから分かっていて。だから、助成金などで資金を得ることがとても大事なんですけど。
ただ、そうした予算面だけを意識していくと、上映できる作品に限りが出てくる場合もあるので、お金のことをしっかり考えないといけない一方、考えすぎないようにしている部分もあります。
――おっしゃる通り、配給会社が選ばなかった作品を上映することにはある種の難しさもありますよね。作品を自分の手でどう紹介するのかも重要になってきますし。
そうですね。例えば一昨年、渋谷のシアター・イメージフォーラムという映画館で7夜連続上映させてもらった『あの夏のアダム』という作品は、海外のレビューサイトで10点満点中1つしか星がついていなかったんです。
というのも、原作小説のあらすじに由来するボイコット活動が作品の公開前に起こって、映画をまだ観ていない人たちが低いレートをつけていて。実際に作品を観ると、それが一つ星として評価されるような映画ではないことが分かるのですが、日本では配給会社がつかなかったんです。
『あの夏のアダム』は演者にもスタッフにもトランスジェンダー、クィアコミュニティの人たちが多く参加した貴重な1本なのですが、それが上映されないと、関心のある観客も作品を観ることができない。それは問題だと感じて、自分が上映しましたし、結果的にやって良かったと思いました。
映画『あの夏のアダム』(リース・アーンスト監督、2019年)予告編
――作品パンフレットでは、公開前のボイコットについても祥さんの言葉で詳細に説明してくれていましたよね。背景を知った上で作品を観られてよかったと思いましたし、同じように感じた観客の方も多くいたのではないかと思います。
ありがとうございます。おかげさまでお客さんも沢山来てくれました。たまたま東京にいた出演者のボビー・サルボア・メネズさんが会場に来てくれたのも良い思い出です。
――信じられない偶然ですね。
メネズさんが「この日だけ空いている」と教えてくれたので、その日を上映の初日にしてもらったんです。インディペンデントな活動は、タイミングがすごく大事ですね。
観客と共に作り上げる上映の場の安心感
――祥さんは2015年から10年間上映活動をされていて、さまざまなクィア映画に触れられてきたと思います。その中で、セクシュアルマイノリティをめぐる状況に変化を感じた部分はありましたか。
すごくいろいろあると思います。中でもトランスジェンダー(編注:生まれた時に割り当てられた性別と性自認が異なる人)の存在が可視化されてきた部分はあるのかなと。ただそのことについて「トランスの人たちの表現の幅が広くなっている」とか「進んできた」と言うのは、個人的には違うと思っていて。
大胆なことをしてきたトランスの人たちはこれまでにもずっといて、一概には言えませんが「かつての方が今よりも自由にトランスの人たちが表現をしていた」と言う人もいるんです。もちろん今もトランスの作り手によるパワフルな作品はあるけれど、すぐに政治の土台に上げられて、主流メディアや主流社会の矢面に立たされ、攻撃されやすくなってしまった面があり。すごく難しい時にいるな、と感じています。トランスの人たちが、限られたリソースの中で表現を強いられている苦労もあると思いますし。
――周囲の受け取り方によって本人たちが息をしづらくなってしまったら元も子もないですよね。
映画においても今は「正しい表現」ということにすごく気を遣った、意義深いけれども、表現としては物足りない作品が見受けられますが、今後はもっとニュアンスのあるトランスストーリーが増えていくのではないかと思います。既にアメリカなどでは、社会の期待を無視したり、より複雑な個人の葛藤を描いたトランスの物語が出てきていて。
それとこの10年で、インターセクショナル*な境遇を描いた作品もすごく増えていると思います。例えば移民でクィア、障害とクィアとか。もちろんこの点についても、70年代、80年代から複雑なLGBTQ +の物語は存在していたのですが、今後ますます、そうした映画が増えていくのではないかなと。
*人種や性別、階級、性的指向、性自認など、アイデンティティが複数組み合わさることで生じる差別や抑圧を捉えるための概念
――これからの10年で良い変化が起きていくことを願いたいですね。ちなみに作品自体ではなく、クィア映画の配給宣伝をめぐる状況について感じる部分はありますか? 例えば過去には日本公開にあたり、ポスターから性的指向を示す要素が消されていて、批判を受けた作品などもありましたが……。
宣伝問題は確かにありますよね。数年前まで、試写会に行ったら「レズビアンという言葉は使わないでください」という指示がプレス資料に書いてある、ということもありました。そういうものにうんざりしているクィアの映画ファンが、傷つくことなく映画を観られる環境を作れたら、とはもちろん考えています。ただ、十分に安心できる環境を作るためにはかなりのリソースが必要なことも事実で。例えば100人のお客さんがいてくれるとして、全員が全くストレスを感じずにイベントに来て、家に帰れるということは無理なのかもしれないと感じることもあるんです。
そんな時に、自分はもちろん、来る人も工夫を提案してくれたり、サポートしてくれたりするとすごくありがたいですね。
――サポートの仕方としては、例えばどんな方法があるでしょう。
自分が出した告知内容の中によくない文言を見つけたらより適切な文言を教えてくれたり、会場の段差で困っている人がいたら、その人を助けてくれたり。何か不備があった時に、クレームや文句を言うのではなく相談をもらえることがあるのですが、そういう人たちのおかげで場作りというのができているな、と思います。
――これまで積み重ねられてきた信頼関係の賜物ですね。
自分はバーバラ・ハマーというレズビアンの実験映画作家の『オーディエンス』(1982年)という作品が好きなのですが、その作品には、自分の映画を観に来た観客に、作家が「私は映画を作った、あなたは何をしますか」と問いかけるシーンがあるんです。
自分はお客さんに対してそこまで言わないかもしれないけれど、いち観客としては、その言葉についてよく考えています。Normal Screenの上映の場でも、来てくれた人が何らかの刺激を受けて、能動的になってくれるようなきっかけがあれば良いなと思いますね。



















