タイトル通り、最後まで「恋せぬ私」のままでいてほしい。『若草物語―恋する姉妹と恋せぬ私―』
『若草物語』は、『SHUT UP』同様、フェミニムズに取り組もうとしているのがわかる作品
日本テレビの日曜ドラマ『若草物語―恋する姉妹と恋せぬ私―』は、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』を原案にしたドラマである。脚本は『家売るオンナの逆襲』『悪女(わる) ~働くのがカッコ悪いなんて誰が言った?~』の松島瑠璃子。
韓国でも2022年にパク・チャヌク作品で知られるチョン・ソギョン脚本の『シスターズ』というドラマがあった。企画の意図として、『若草物語』の姉妹が韓国にいたらどんな風に暮しているだろうということがあるそうだ。日韓の同じ作品を下敷きにしたオリジナル作品が、貧困を描いていたり、元は四姉妹の話なのに、その中の一人が不在なのも共通していて興味深い。
日本版の主人公は、ドラマの制作会社で働く次女の町田涼(堀田真由)。長女の恵(仁村紗和)は、ハローワークで働く非正規社員。四女の芽(畑芽育)は服飾専門学校に通っていて、今は連絡のつかない三女の衿(長濱ねる)という存在がある。
涼の高校時代の同級生で、現在は新聞社の文化部で記者として働いている行城律(一ノ瀬颯)という登場人物もいる。仁村紗和と一ノ瀬颯がいるというだけで、以前にもこのコラムに書いた『SHUT UP』を思い出す。もっとも、『SHUT UP』では、仁村紗和も一ノ瀬颯も、敵対しあっていたが、今回はふたりは和やかな関係性である。
とはいえ、『若草物語』は、『SHUT UP』と同様に、あきらかにフェミニズムに取り組もうとしているのがわかる作品だ。
フェミニストであることで、めんどくさい人扱いされることは、何年変わっていないのだろう
1話では、涼はドラマ制作会社で助監督をしていたが、監督が病気で動けなくなり、急遽、1話のみではあるが監督をすることに。しかし、そのドラマを手掛ける大物脚本家・黒崎潤(生瀬勝久)は、旧態依然とした考え方の人物で、なにかと涼とは意見がかみ合わない。涼は、黒崎の脚本を無視して、セリフを改変して撮影を決行したことがきっかけとなり、制作会社をやめることに。もともと憧れていた脚本家を目指すのだった。
この黒崎と涼のやりとりが興味深い。黒崎は、「やっぱり男は本質的には女性にはかなわない」とか「女性ならではの視点が欲しい」とか言いつつも、フェミニズムを押えておけばトレンドには乗れるかもしれないが、実際の女性はいまだにプリンセス願望を持っており、シンデレラのような物語がウケると考えている人だ。涼に対しても「どんどん恋しないともったいない」などとアドバイスするのだった。黒崎のような人から同様のことを言われたことのある人は多いのではないだろうか。
一方で気になったのが、涼の先輩でプロデューサーの柿谷成実(臼田あさ美)である。立場的なこともあるのだろう、黒崎のセクハラ、パワハラまがいの発言をすべて笑顔で受け流しているのが大変そうだ。彼女が黒崎にいちいち目くじらを立てないのは、皆が涼のような反応をしていたら仕事が成り立たないということもあるのだろう。こういう態度をとらざるを得ない人、スルーするしかない人もまだまだいるだろう。やりたくないのに、そんな態度をとっている人、過去にとっていた人にとっては、ザラりとした気持ちにさせるものがある。
もちろん涼は、立場など気にしない。黒崎に対しても、誰に対しても疑問を投げかけるのだが、涼は高校時代からずっと、このような違和感に蓋をしなかったキャラクターだったようだ。高校時代に活動していた演劇部の教師からも「また屁理屈こねて」と言われていた回想シーンがある。妹の衿と、電車に乗って通学している回想シーンでは、車内に婚活、ダイエット、脱毛の広告があふれていることで、「こうでなきゃ」という価値観に縛られることに疑問を呈する会話をしていいて、「まあ、そういうひねくれたところが脚本家に向いてるのかも」と妹に言われるシーンもある。
もちろん、妹の衿は、涼のそんな性格を気に入っているし、衿自身も涼の側の人間であるとわかるし、信頼しているのが伝わってくるので、一般的な当時の言説を衿が言っているということはわかるのだが、フェミニストであることで、めんどくさい人扱いされることは、何年も変わっていないとも感じてしまった……。
『逃げるは恥だが役に立つ』の中でも、主人公の森山みくりが、なにかにつけて論理的に反論をするたびに「小賢しい」と言われ、それが彼女のコンプレックスになっていた。涼が、おかしいと思ったときに、周囲から「屁理屈をこねている」とか「ひねくれている」と思われることとも同様だろう。むしろ、人に「こうであれ」と押し付けるほうがにひねくれているかもしれないのに……。
好きだという気持ちを恋愛として向けることはときに暴力的になる
その後、涼は脚本のコンテストに応募したことをきっかけに、数々の恋愛ドラマを手掛けてきた脚本家の大平かなえ(筒井真理子)の元で働くことに。この大平のキャラも面白い。彼女は、ホラーやスプラッターが好きでこの道を目指したというのに、恋愛ドラマが当たってしまった脚本家で、ほとんど恋愛の経験がないのに、恋愛ドラマを描き続けないといけないということになってしまったキャラクターだったのだ。
涼もまた、(大平とは少々異なるが)恋愛に関心がなく、恋愛感情がわからない人物として描かれている。それは、「主人公が自分の恋を自覚する瞬間」というものがわからずに悩んでいたことでもわかる。
そんな彼女のことを密かに思っているのが、新聞記者の行城律のようである。
律は涼のことを思いつつも、彼女に無理に恋愛をさせるようなこと、自分の好きだという気持ちを恋愛として彼女に向けることは暴力的なのではないかと考えていることは、特筆したい部分である。
タイトルの中にも『恋せぬ私』とあるだけに、律が無理やり恋によって、変わったり、成長したりすると示す物語ではないということは予想できる。また、彼女の姉や妹、母親に関しては恋する人として描かれているから、涼はそうではない人物だとは描かれるだろう。
これまでのドラマや物語に、恋愛だけがヒロインを成長させるという結末のものが多かっただけに、律にはタイトル通り「恋せぬ私」のままで最後までいられるのか心配になってしまう部分もある。心配をしてしまうのは、最初にフェミニズム的な問いがあるドラマでも、最終話ではやっぱり皆と同じように恋愛で成長するようなラブコメをたくさん見てきたからだ。それは、脚本家の意向ということではなく、ドラマに関わる人の中に黒崎のような人間がいて、その人が力を持っていたからだろう。
しかし、このドラマを5話まで見てきた限りでは、そんな結末にはならないのではないかと思えている。なぜなら、1話ですでに涼は、女性が恋愛によって成長するようなドラマはつまらない!と言って、元の台本のセリフを変えてまで、黒崎に宣戦布告しているからである。
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text_Michiyo Nishimori illustration_Natsuki Kurachi edit_Kei Kawaura