【光石研さん著作インタビュー】スケボー、イラスト…20代のころやってたことをもう一度やってます (笑) | エッセイ『RIVERSIDE BOYS』| きょうは、本を読みたいな #11

CULTURE 2024.07.19

数時間、ときにもっと長い時間、一つのものに向き合い、その世界へと深く潜っていく。スマホで得られる情報もあるかもしれないけれど、本を長く、ゆっくり読んで考えないとたどりつけない視点や自分がある。たまにはスマホは隣の部屋にでも置いといて、静かにゆったり本を味わいましょう、本は心のデトックス。第11回は俳優・光石研さんが、地元北九州での"青春時代"から、今なお尽きることのない仕事や趣味への情熱までを書き下ろした新刊エッセイ『RIVERSIDE BOYS』についてインタビュー。

Talking

「おれたちはリバーサイドボーイズやね」

――北九州っていまちょっとしたブームだってご存じですか?同じ福岡でも、博多ではなく北九州がいま熱いと。

光石 へえ〜!『地球の歩き方』の北九州編が売れているという話は耳にしたことがあるんですが。地元出身者として、それはうれしい話だなあ。ただ、北九州といえば、みなさん小倉を思い浮かべるんですが、ぼくの出身は黒崎というちいさな町で。家の近くには遠賀川(おんががわ)という大きな川が流れてましてね。昔は上流で採れる石炭なんかを輸送する川でもあって。いまはちょっと寂しくなってしまいましたが、ぼくが子供の頃はわりと活気がある町だったんです。

光石研リバーサイドボーイズ

――遠賀川は著書『リバーサイドボーイズ』のタイトルの由来になった川ですね。

光石 俳優仲間のでんでんさん、鈴木浩介くん、野間口徹くんが北九州出身で、遠賀川流域がそれぞれの故郷なんです。4人で集まって飲んだときに、「おれたちはリバーサイドボーイズやね」とぼくが言ったら、でんでんさんが「そうたいね」と。そんなこともあったんで、エッセイが本になると決まったときに、『リバーサイドボーイズ』にしようと。

――少年時代の話や、俳優になったきっかけの話、売れない役者だった20代の頃の話、それぞれの話がとっても生き生きと語られていて、光石さん主演の自伝映画を観るように読みました。そして、光石さんってとってもひょうきんな方なんだなと(笑)。エッセイの締めが毎回面白いんです。

光石 新聞での連載だったんで、1本800字という制限の中、オチじゃないけどそういうのがあったほうがいいのかなって。なんせ、何もわからないまま書いていましたから。

――でも、文章がすごくうまくて読みやすいです。昔から書くのは得意だったんですか?

光石 いやまったく。「エッセイを連載しませんか」と西日本新聞さんからオファーがあって、それで初めて書いたんです。それまで、映画のパンフレットなんかにちょこっと寄稿することはありましたが、自分自身のことを書くは初めて。文章を書くのはすごくエネルギーの要る作業なんだと、身に染みました。雑誌のライターさんや新聞記者さんのことを尊敬します(笑)。

光石研リバーサイドボーイズ

「二度と帰って来るもんかと出たけれど」

――それにしても、800字のエッセイが50本、1200字のエッセイが13本、相当な数のエッセイを書かれましたよね。執筆はどんなふうに進めていったんですか?

光石 始めたのがちょうどコロナ禍で、ずっと家にいなきゃいけなかった頃だったんです。だからもう、寝ても覚めてもエッセイのことばっかり考えて。ずっと書いてましたね。地元の友達に連絡しては「あそこの店、なんていうんだっけ?」ってリサーチして。「あそこは何人兄弟だっけ?」「あのたこ焼き屋、おばあちゃんの名前はなんだっけ」「床屋さんの名前は?」。友達にいろいろと協力してもらったんです。

――ご自身の人生を振り返るいい機会になったんですね。

光石 そうかもしれません。ただ、執筆はタブレットだったんですが、タイピングができないもんですから、指一本で一文字ずつ入力するんです。ものすごい時間がかかりましてね(笑)。しかも、うまくいくときはバーッと数時間で書けるんですが、詰まってしまうと途端に進まなくなる。書いては消してを繰り返し、ちょっと足して内容を広げてみたり。ですから、こうして1冊の本になってみると、大変な思いをして書き綴ったぶん、達成感があるといいますか。周りの反応がわりとよかったのはうれしかったですね。次に何かやるときの励みになるなって。

――黒崎の話もたくさん入っていますが、地元に戻られる機会は結構あるんですか?

光石 いつの頃からか、ヒマさえあれば帰りたくなって、九州の仕事は断らないようになっちゃったんですよ(笑)。50歳を過ぎた頃、55ぐらいの頃でしたかね。大きな同窓会があったんです。黒崎の町で育った小中時代の連中が集まって。100何人も集まったからすごく盛り上がって。それからですね、ちょくちょく帰るようになったのは。親が高齢だということもあって、親の顔見に行くということもあるんですけれど。

光石研リバーサイドボーイズ

――「ひとりっ子」ですもんね。

光石 そうなんですよ。ひとりっ子だし、親父も1人だし。母は30年前に亡くなっていますから、母の墓参りもありますし。そんなことなかったんすけどね、昔は。東京に憧れ、田舎が嫌いで飛び出したはずなんです。「こんな町、二度と帰るもんかっ!」なんて捨て台詞を言って。でもいまは違うんです。常に帰りたい(笑)。

「不思議なもんですよね、人生って」

――光石さんは、年を重ねられるごとに仕事のオファーが増えていっている印象があって。それこそ里心のついた50代からはひっきりなしにドラマや映画に出演されている印象です。

光石 なんででしょう(笑)。本当に幸せでうれしいことなんですが、だったらなぜ若い頃はヒマだったのかって(笑)。不思議なもんですよね、人生って。

――本にも書かれていましたが、大きな転機は30歳を過ぎてからだったと。やめようと思ったり、心が折れたりしたことはなかったですか?

光石 ぼくは16歳で『博多っ子純情』に出会い(注:光石さんは高校生の頃に映画『博多っ子純情』のオーディションを同級生と一緒に受けて合格、主演デビューを果した)、「面白い、この世界」って思っちゃって。しかも、単なる高校生からいきなりこの世界入っちゃったでしょう。田舎の子なのに。世の中のことを何にも知らないし、映画の現場だけ見て飛び込んじゃったから、よそに目が行かなかったし、ほかの世界へ行く術を知らないんです。結局、これを続けるしかなかった。だから、30歳過ぎて、35、36の頃からですね。徐々に状況が変わってきたのは。だって、ご飯食べられるようになったのは40過ぎてからですから。

――20代30代の頃は焦燥感とかありましたか?

光石 とはいえ、20代の頃はまだ一人暮らしですし、お金がなくても何とかなってたんです。貧乏でも恥ずかしくなかったし、それなりに楽しんでいましたし。やっぱり、30代になって結婚してからですよね。彼女だけでも幸せにしなきゃって責任感が出てきて。だから、自分が俳優としてどうこうというより、そっちの方がちょっときつかったですよね。

――でもそこから、ピーター・グリーナウェイ監督と出会い、同世代の青山真治監督、岩井俊二監督らと出会い、道が開けていきましたよね。

光石 1993、94年ぐらいからですかね。当時の日本映画は、バブルがはじけて、作品に予算かけられなくなったから、若い監督に撮らせるという流れが出始めたんです。映画だけじゃなく、深夜ドラマやVシネマ、オリジナルビデオなんかもたくさん作られるようにもなりました。そういうところにちょうど乗っかることができたというか。時代だったと思いますね。

光石研リバーサイドボーイズ
光石研リバーサイドボーイズ

――しかし、年齢を重ね、俳優としても熟していき、仕事も増えていく、というのは理想的だと思いませんか?

光石 業界の隅っこでうろちょろしながらいっぱいやってるうちに年を取っただけのことですから。ただ、いまとなっては、どんな現場へ行っても知り合いがいますから、それだけでも、「ああ、続けててよかったな」と思いますね。昨日も新しい現場だったんですが、俳優部にも撮影部にも知ってる人がいるし、懐かしい顔が見えたりするとうれしいし、これこそがぼくの財産だなって。偉そうな言い方ですけれど(笑)。

「結局、ひとりっ子だからなんです」

――光石さんといえば、主演されたドラマ『デザイナー渋井直人の休日』よろしく「こだわりのおしゃれ好き」というイメージもあります。

光石 確かに、渋谷直角先生の原作漫画を読んだときは、「これはぼくの物語だ」とは思いましたけれど(笑)。ただ、洋服は子供のころから好きで、20代の頃は、渋谷や原宿にあるいろんな古着屋をくまなく巡ったりしてました。いまはもう、気に入ってるブランドの店をいくつか回ってちょこちょこっと買うぐらいしかしませんね。

――とはいえ、スケボーを再び始められたとエッセイにはありました(笑)。

光石 それはもうマガジンハウスさんのせいですよ(笑)。1976年、ぼくが中学生の頃ですよ。『ポパイ』の創刊号が西海岸特集で、「これからはスケボーだ!」ってやってたんです。それでスケボーが欲しくてたまらなくて、でも『ポパイ』に載ってるようなカッコいいスケボーは黒崎では売ってない。ようやくそれらしきものを1台見つけて、商店街の上から下まで滑るのが至福の楽しみだったっていう。そんなふうに刷り込まれて育っちゃったものですから(笑)。

――音楽好きでもありますよね。下北沢や新宿のレコ屋巡りもよくされていたし、クレイジーケンバンドに夢中になられたり。

光石 これも発端は中学生の頃なんです。ジョージ・ルーカス監督の映画『アメリカン・グラフィティ』を観て、50年代のオールディーズにハマりましてね。洋服にしても音楽にしても、俳優もそうかもしれませんが、なにかに取り憑かれるとそれを突き詰めてしまうというか。結局、それはぼくが「ひとりっ子」だからだと思うんです。1人遊びっていうか、部屋の中で遊べるものが好きなんです。

――いまはどんな「1人遊び」に夢中だったりしますか?

光石 久しぶりに絵を描いたんです。本に出てくる黒崎の地図、これはぼくが描いたイラストなんですが、描いているうちに面白くなっちゃって。その延長でステッカーを作ったりしたんです。そこで、リバーサイドボーイズで1点もののベトジャン(注:ベトナムジャケット。60〜70年代に流行ったアメリカンカジュアル)を作りたいとなって、どんな刺繍を入れるのがいいかなあ、なんて絵柄を考えていて。そんなことを家でやってるんですよ、いまは(笑)。20代のヒマな頃ってそういうことばっかりやってたんです。音楽を聴きながら、ラーメンを作って、ドゥーワップのレコードジャケットのイラストを描いてっていう、それを60過ぎてからもう一度やってる(笑)。音楽を聴きながら、アルファベットを描いた型紙を切って、ベトジャンの上に並べて。「いまはそういうのってパソコンで簡単にデザインできるんですよ」なんて言われて、えー!そうなのぉ?って言いながら(笑)。

光石研リバーサイドボーイズ

エッセイ『RIVERSIDE BOYS』

光石研リバーサイドボーイズ

北九州の黒崎で育ち、『博多っ子純情』のオーディションを受けて主演デビュー。世界の名監督に愛される俳優・光石研が上梓した初の著書は、自身の青春や俳優業のこと、日々の生活などを綴ったエッセイ集。コロナ禍で撮影がストップした2021年から2023年まで西日本新聞に連載したエッセイを再構成し、「思い出の街への撮り下ろし紀行」と「リリー・フランキーさんとの地元トーク」も新たに収録。軽快な語り口にのって読み進めるうちに、いつしか心はリバーサイドへ。光石さん流、俳優業の極意も明かしている。1,760円(税込)(三栄)

text_Izumi Karashima photo_Koichi Tanoue Hair&Make_Chiho Oshima stylist_Satsuki Shimoyama
シャツ、パンツ(ともにBEAMS PLUS/ビームス プラス 原宿 03-3746-5851) 靴(Paraboot/Paraboot AOYAMA 03-5766-6688)

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