「女の子は気が利かないとね」と押し付けられてきた私たちのこと|高瀬隼子『いい子のあくび』|きょうは、本を読みたいな #3
数時間、ときにもっと長い時間、一つのものに向き合い、その世界へと深く潜っていく。スマホで得られる情報もあるかもしれないけれど、本を長く、ゆっくり読んで考えないとたどりつけない視点や自分がある。たまにはスマホは隣の部屋にでも置いといて、静かにゆったり本を味わいましょう、本は心のデトックス。第三回目のブックガイドは高瀬隼子さんの『いい子のあくび』をご紹介。
気を利かせなきゃいけないのは女の子だけ?
少女時代に大人たちからこんなことを言われた経験はないだろうか。「気配りできる子になりなさい」とか、「よく気が利くね」とか。幼い頃から気が利かない子と見られていた身としては、今さらながら、何か一つに集中しがちな性格で、他のことが見えていないだけだったと反論したいところだが、大人の目にはそうは映らなかったらしい。結果、「ぼんやりしてないで」「少しは気配りできないと」とよく注意されていた。しかも昭和のことだから、「気が利かない」の前に「女の子なのに」という枕詞を置かれることも多かったのを覚えている。そう言われると、少女のわたしは思ったものだ。「なぜ女の子というだけで、気を利かせなきゃダメなの?」。
昔のドラマではよく、男女数人でのホームパーティや親族の集まりで、キッチンで準備をするのは女性たちだけで、リビングでは男性陣が座って喋っているという光景が描かれていた。会社の宴会では、女性たちが男性のジョッキが空きそうになっていたらすぐにメニューを取り寄せたり、新しく料理が届く前に空いたお皿をテーブルの端に重ねて場所を空けておいたりと、甲斐甲斐しくケアしている。これは適材適所の結果であり、気が利く人って素晴らしいと感心したいところだが、そうではない。気を利かせているのは常に女性ばかりなのは、なぜなのだろう。男の人は気が利かなくても許されるのはどうして? 「女なのに鈍感」といわれ続けていると、早くからそんな不平等に気がつくのである。
先に気づいてケアしてきたのに割に合わない
高瀬隼子の長編小説『いい子のあくび』の主人公の直子は、とてつもなく気が利く女性だ。インターネットでの予約管理システムパッケージの販売会社に勤めている彼女は、営業職なのに来客用のインスタントコーヒーがなくなっていることに気づき、補充する。上司に褒められてもさりげなく流し、買い忘れた後輩女子社員には「ついでに発注しちゃった。ごめんね勝手に」と謝る必要もないのに謝り返す。ちゃんと気遣いのできる人間として、会社で頼られ、恋人の大地にも愛されている“いい子”だ。しかしその“いい子”が、スマホを見ながら自転車で向かってきた中学生に対し、「ぶつかったる」と反射的に避けない判断をするところから、物語が始まる。それまでは、直進してくるながらスマホの人にいつも先に気づき、ぶつからないように避けてきた直子の、やり場のない怒りと悲しみが少しずつ明らかになっていく。
直子は昔から、日直が黒板を消し忘れているとか、花の水やりを誰もしていないとか、そういう細かな不備を誰よりも先に気づいてしまう子どもだった。見て見ぬふりができず、先回りしてケアしてきた。それは彼女に「女の子なんだから“いい子”でいなさい」と言っていた祖母が、母を密かに虐待しているのを見て、“いい子”でいないと自分にも被害が及ぶのでは、と幼心に察した結果だったのかもしれない。だから直子は常に気を利かせ、上手に“いい子”を演じてきた。
しかし、困っている人に手を差し伸べるようなわかりやすい善行は、大いに感謝される一方で、善行とも呼べない日常の小さな気遣いは、「女性なら当たり前」とばかりに軽く扱われ、報われることがない。直進してくる歩きスマホの男は、なぜこっちが先に気づいて避けると思い込んでいるのか。直属でない上司がなぜ飲み会に出席してくれと言ってくるのか。それは女性だからではないのか。毎日さまざまな場面で、物事がスムーズに進むようケアしてきた。なのに、そんなことにまで気遣いをしなければならないなんて、割に合わない。あまりの報われなさに、直子は自分だけが損をしていると、怒りを募らせていく。
教職に就き、率直さとやさしさでもって人と接する真っ当な大地は、直子の“いい子”ぶりを褒め、彼女の演技に気づかない。本当の“いい人”である大地に対し、馬鹿にする気持ちを抱く直子だったが、結婚という空気が二人の間に流れ始めた矢先、自転車の中学生とぶつかった事件から波紋が広がる。そして、直子の怒りが今度は大地を巻き込み、駅のホームで歩きスマホをしている男へとぶつけられるのだ。
いまだ蔓延るジェンダーバイアスにうんざり
今年9月の内閣改造に関する記者会見で、岸田首相が「女性ならではの感性や共感力を発揮していただきたい」と発言していた。彼らが考える女性ならではの感性には、きっと直子のように機転が利き、ケアができることも含まれているに違いない。幼い頃から「女の子は気が利かないとね」と周囲から期待され、女性=ケアする者という役割を押し付けられてきた結果、それを内面化している人、“いい子”を演じざるを得ない人もいるだろう。家族の集まりで、おじさん連中から「ビール持ってきて」「コップがないぞ」「箸をくれ」と言われて、「大人なんだから自分で取りに行けよ」と言い返すこともできずに。会社でコピーしようとしたら紙切れだったとか(直前に使った人が補充してくれ)、家の冷蔵庫を開けたらピールの紙パックだけが残されていたとか(最後の一本を飲んだ人が捨ててくれ)、女性だというだけで、そんなことまでケアする必要はないのだ。人間の感性はあっても、女性ならではの感性などもはやないに等しいにも関わらず、令和時代にまだまだ絶賛蔓延り中のジェンダーバイアス。このモヤモヤを、歩きスマホの人以外のどこにぶつければいいのか、教えてほしい。
『いい子のあくび』
ながらスマホで走ってきた中学生の自転車を、避けずにぶつかった直子。自転車は同時に車にも接触するが、2人とも軽い怪我で済んだ。しかし後日、中学生がその出来事を不用意につぶやいたことで深刻さが増していく。第167回芥川賞受賞第1作の他2編を所収。定価1760円(集英社)