今日マチ子『かみまち』|ふっと一息。きょうは、本を読みたいな #1
数時間、ときにもっと長い時間、一つのものに向き合い、その世界へと深く潜っていく。スマホで得られる情報もあるかもしれないけれど、本を長く、ゆっくり読んで考えないとたどりつけない視点や自分がある。たまにはスマホは隣の部屋にでも置いといて、静かにゆったり本を味わいましょう、本は心のデトックス。今回から始まるブックガイド、第一回目は漫画、今日マチ子さんの最新作『かみまち』をご紹介。
「幼い天使の見る悪夢」
主人公の灰根ウカは、名門・白華学園の高等部1年生。母親の過保護と過干渉に耐えかねて家出するが、日常から一歩外に出た世界が、少女にとって「地獄」だと知る。
最初に泊まったカゲロウという男性の部屋で、ウカは同じ家出少女のナギサから「家出のやりかた」を教わる。「神待ち」でスマホ検索すれば、宿泊先が見つかるかも。「タダで泊める人は神、うちらは神に拾われるのを待ってる」とナギサは言い、少女たちの地獄めぐりが始まる。
冒頭の見開きの、全身をハサミで傷つけられ、横たわるウカの絵が印象的だ。下着姿なのに全然性的じゃない。少女が大人から虐待や性暴力を受けるつらい場面がつづくが、身体は子供か人形のように可愛らしく描かれ、生々しさは極力表現されない。一方で少女のモノローグは理性的なのが、不思議にアンバランスだ。
個人的なことだが、私自身も20代の時にしゃれにならない事件を経験したのに、うまく被害を自覚できず、原因不明の不調を長く抱えていた。ずいぶん年を取ってからカウンセリングに行ったり、トラウマ回復の本を読んだりした。その経験を踏まえると、やや違和感がある。ウカのようにとっさに加害者に反撃できるだろうか。ナギサのように正確な喩えで被害を認識できるだろうか。
作品はリアリティの追求とはまた別のところに、着地点を見出している。浮かび上がるのは、今の日本社会に蔓延する幼さや寂しさだ。
同じ今日マチ子さんの、沖縄戦を描いた過去作『cocoon』(2013年)のあとがきに「現代の少女が、昔の戦争の本を読んで、夢をみる。そういう話を描こうと思いました」とある。
不思議な考え方をする作家だと思った。なぜ「現代の少女」という架空の人格をあえて置いて、その子に想像させるのだろう。大人になった今の自分が戦争を想像する、ではいけないのか。
『cocoon』と同様、『かみまち』も、主人公のウカや作者とはまた別の「少女」が見た夢の世界、なのかもしれない。「少女」は肉体を持たないが、何でもお見通しの賢い天使で、作者と登場人物と読者をつなぐ。現実の絶望ムードを敏感に受け取って、繭の中でうつらうつらと悪夢を見ている。
日本社会は、ゆるキャラや童顔の美少女アニメは歓迎するが、大人の身体を扱うのが苦手らしい。特に女性の身体は、ともすれば性の対象か子を産む母体と見なされる。性犯罪や性的同意年齢に関しては、つい最近まで110年以上前の刑法を、平気で使っていた。若い世代が安心して大人になれる社会を作れているとは言いがたい。
今日マチ子さんと私はだいたい同世代で、じつは出身高校も同じらしい。私が東京の高校生だった1990年代後半、ブルセラブームというのがあって、日々テレビが、女子高校生の使用済みの制服や下着が渋谷で売買されている、と面白おかしく報道していた。私も友達と「いざとなったらパンツや靴下を売れば小遣いになる」と軽口を叩いた。
メディアは、援助交際でブランド品を買う女子高生を、主体的に性や消費活動を楽しむ新世代が登場した、と持ち上げた。実態は多くの大人が、バブル経済崩壊後の新たな景気づけのネタとして、低年齢層の消費に目をつけ、ブームを煽ったのだろう。その他の大人は、少女なんて関係ない、と傍観していた。それで私自身も、社会や大人の男性への信頼がすり減ったし、人生に大きな影響があったと思う。
『かみまち』に登場する大人は、ほとんど虐待や暴力の加害者ばかりだ。加害者それぞれの傷つきも描かれる。子供を保護すべき立場なのに、傷つき疲れ果て、子供のまま成長を止めている。誰もが幼く、孤独で寂しい。これぞ今の日本だ。冒頭のウカの絵はその象徴だろう。
可愛らしい絵柄や童話のような語り口と、重苦しい主題は、当然ながら相性が悪く、作中でバチバチと喧嘩をしているように見える。ときに優しい描線は荒れ、見る影もなく破綻する。耐えられない、と怒りが吹き上がり、火事の炎に形を変えて、作中の「神の家」を襲う。
警察ではなく、カゲロウとユキという若い第三者の介入によって事件は解決に向かう。神は待っても来ず、少女らはたがいの淡い友情のみを頼りに生きのびた。将来は医者や調理師や海外留学を目指す、と元気に宣言するが、保護者のない子供のまま一足飛びに社会参加を決めたようにも見え、胸が痛んだ。
羽化した蝶が青空に飛び立つ絵とともに、死んだ少女のメッセージが最後に掲げられる。作者が取材したという現実の「かみまち」少女たちの存在が背後に浮かびあがる。作品がフィクションであることをやめ、ルポルタージュか鎮魂の詩に変わっていくようだ。
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』(1994年)という少女マンガ史に残る傑作がある。『かみまち』の少女にはこの『リバーズ・エッジ』のキャラの面影がある。マンガの少女像の類型は当時も今もそう変わらない。 痩せたモデルの美少女とぽっちゃりした過食の子、処女の子と性を知る大人びた子、消費社会にいち早く参加する子と興味のない子、その順列組み合わせ。
『リバーズ・エッジ』にはすでに、未来なき社会を生きる少年少女の絶望が描かれていた。だが、彼らは、はちきれんばかりの生々しい肉体でたがいに殴りあい、性交し、殺意さえ抱きあった。川沿いの街の団地で焼死した少女を、残された仲間が悼む。絶望の先でまだ生きられるよう、当時の読者は真剣に祈ったものだ。
あの30年前のキャラが、肉体のない幼い天使として甦ったかと錯覚し、切なかった。30年前より格段に貧困化し、孤独なネット環境だけ発達した今、肉体なんてとっくに贅沢品なのかもしれない。
家出少女を助けるカゲロウくんが、司法試験を目指すあんまり立派なイケメンだから、もっとおバカで愛嬌あっても良いんだよ、と彼に言いたくなった。『リバーズ・エッジ』がオマージュを捧げる先行作品で、少女マンガ史の輝ける金字塔に、大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(1980年)がある。あれに登場する御茶屋峠のようなおバカなハンサムに、少女マンガのヒロインは伝統的に救われてきた。
そのロジックは、橋本治の革命的な少女マンガ評論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(1981年)でひも解かれている。傷ついた少女を前に、バカを晒してジタバタするハンサムこそが、じつはフェアネスを知り、社会変革をする一番いい男なのだ、と。こんな時代でもまだ御茶屋峠のようなヒーローは人の心に生きているはずだ、と私は思っている。
「少女」が見る『かみまち』の悪夢とは、繭の外の現実のことだ。幼い「少女」が恐れ、混乱し、破綻すらしても、作者はじっと介入せずにゆだね、今の日本の物語を最後まで語らせた。並みの格闘ではなかったはずだ。同じ社会を傷つきながら歩んできた人に読んでみてほしい。(文・千木良悠子)
『かみまち』
「今夜、わたしを泊めてください」。居場所がない少女たちが一晩の「神」を求めて街を彷徨う。「神待ち」の実態と、生きづらさを抱えた少女たち、現代社会の闇を描き出した、今日マチ子の最新作。上巻、下巻ともに各1320円(税込)/集英社