映画『バービー』で描かれた身近な話。
『逃げ恥』『向井くん』ら日本のドラマに重なる視点
8月11日から日本で公開されている映画『バービー』。バービー人形の世界を実写化したこの作品、極彩色で現実にはありえないバービーランドのことを描いた物語と思いきや、「日本のドラマ」に重ねてみると、ごく身近な話として捉えることもできそう。
映画は、家父長制の世の中とフェミニズムを描く
全米の興行収入が今年のナンバー1になり、配給会社であるワーナーの興行収入においても、『ダークナイト』や『ハリー・ポッター』を抜いて史上ナンバー1になったというニュースが報じられた映画『バービー』。グレタ・ガーウィグが監督と脚本を担当し、主演のマーゴット・ロビーが製作にも入っているこの作品は、世界中で愛された人形のバービーの世界を実写化したものだ。
映画は、家父長制の世の中と、フェミニズムを描き、それがストレートに伝わる内容になっている。フェミニズムに触れたことのある人ならば、ちりばめられた話題に見覚えのあるものが多いだろうし、逆になじみのない人もいるかもしれない。個人的には、主人公のマーゴット・ロビーが演じる定型のバービーと、その人形の持ち主のサーシャ(アリアナ・グリーンブラット)、サーシャの母親のグロリア(アメリカ・フェレーラ)と、三者三様に置かれた状況が違うということも見えてきたところに興味を覚えたし、バービーの恋人のケン(ライアン・ゴズリング)についても考えさせられる映画である。
人形であり、永遠に完璧で変わらぬはずだと思われていたバービーが、あるとき死を考え、やがてその謎を追って人間社会に飛び込むことによって、不安を感じたり、人とときには衝突したり、老いていったりという、人間の在り方に共感して、変化していく話でもある。
バービーの世界には、変てこバービー(ケイト・マッキノン)という、髪はぼさぼさで足は開脚したままだが、困ったバービーたちの駆け込み寺的な存在のバービーがいて、この変てこバービーがかなりカギになっている気もした。つまり、定型で完璧なんて目指さなくてもいい、人はどこか変てこなものなのだから、というメッセージがある気がしたからである。こうしたメッセージがあることで、この極彩色で現実にはありえないバービーランドのことを書いた物語も、身近な話のように思われた。
特に身近に感じられたのが、バービーを生み出したマテル社で秘書をしているグロリアが、およそ2分にわたって、女性の在り方について語るシーンである。彼女は、女性があるときは強く責任感ある姿を求められるのに、同時に突き抜けすぎず、中庸で“ちょうどいい”存在であれと求められている現実を語るのだ。これは、バービーのように、一見、完璧に見える存在が、女の子はなんにでもなれるとエンパワーメントすることがフェミニズムであった時代とはまた違い、今を生きる、リアルな大人世代に刺さる言葉だろう。
反対に、グロリアの娘のサーシャ世代にとっては、ある程度、フェミニズムについての考え方が浸透しているために、すでにバービーの何にでもなれるというメッセージも、グロリアのように、中庸で“ちょうどいい”存在であれという抑圧にも、ぴんとこないのかもしれない。
ただ、バービーのメッセージ、「女の子は何にでもなれる」というエンパワメントは今では色あせてみえるが、まだ女の子がどのような職業にでもなれるという希望さえ持てなかったころには、間違ったものではなかったと思う。実際に、そんなメッセージから希望を持ち、励んだグロリアのような世代もいただろう。しかし、大人になって、それは誰もがなしえることのできるわけではない夢であるということを知っただけなのだ。
その代りに見えてきたのは、グロリアの言うように、頑張って女性が地位のある立場に行くことも、母親になることも、またその両方を選ぶことも、両方を選ばないこともできる世の中になったほうがいいうことであった。
『バービー』につながる日本のドラマ『逃げ恥』『妖怪シェアハウス』『大奥』
それにしても、女性は突出したり、強さを出しすぎることなく、しかしほどほどに、周囲をおびやかさないくらいには頑張ることを目指さないといけないという「呪い」は、ものすごく身近なものであると感じた。
日本のドラマでもこうしたシーンを見たことがあると思って思い出したのは、海野つなみ原作、野木亜紀子脚本のドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』であった。この作品で、主人公のみくり(新垣結衣)は、大学院で臨床心理士の資格を取得したが、なかなか内定がもらえず派遣社員に。しかし、優秀であるがゆえに、ほかでもやっていけるとみなされ、派遣切りにあってしまう。彼女は、常にいろいろ頭の中で考えて、理路整然と言葉にする。それを、元カレから「小賢しい」「批評ばっかりするな」と言われたことが、頭から離れなかった。
このドラマからも、「何にでもなれる」と希望を持って頑張っても、どうにもならない現実と、人を脅かさない存在であれという社会の見えない要請がにじみ出ている気がする。
もうひとつ思い出したのがオリジナルドラマの『妖怪シェアハウス』だ。この作品は、気が弱くて自分の思ったことを言えず、流されてばかりのライターの主人公の澪(小芝風花)が、妖怪たちとシェアハウスで暮らすうちに、少しずつ自分の思ったことが言えるようになっていく物語。パート1の最終話では、「枠になんかはまってたまるか」「成功しなくて何が悪い!」と自分で考えて自分の言葉で憤ることができるようになった澪が妖怪化し、自分を解放することで終わる。
このドラマは、ときおり「ミソジニー」などの言葉が説明つきで使われることもあり、フェミニズムを意識した作品であるが、人形の世界を描いた『バービー』のように、妖怪の世界といった架空の世界を描くことで、社会のおかしさをあぶりだして、ときにコミカルに描くことができるのだと思わされる。
しかしこのドラマ、パート2の『妖怪シェアハウス-帰ってきたん怪-』では、また元の気弱な澪に戻ってしまい、彼女がゴーストライターをした小説の映像化で、ワンマンなプロデューサーに、澪が苦労して書いた小説の要素を無視して思いつきで「恋愛ものにしよう」などと作品を無茶苦茶にされる展開となる。
このシーンを思い出していたら、マテル社の社長が、バービーの在り方を、「きらめきの次は主体性だ」などと、女性を応援しているようなことを言いながら、実はバービーを自分の想像の範疇の箱の中に閉じ込めているだけであり、また結局はバービーの幸せを「ケンとの結婚」であることと考えていることにも似ているなと思った。
女性の主体性をうたいながら、実は最終的には、結婚や恋愛におちついてほしいと思う、『妖怪シェアハウス』のプロデューサーや『バービー』のマテル社の社長のような人は多い。そこにはやはり、女性に中庸で“ちょうどいい”存在であれという思いが透けて見えるし、そこには家父長制の影響がある。
よしながふみ原作のドラマ『大奥』は、バービーランドのように、男女の役割を逆転する、ミラーリングという手法を使った作品である。この物語の中では、若い男子のみが罹る奇病“赤面疱瘡”がまん延したことにより、女性が労働を担い、3代将軍の徳川家光の時代から、女性が将軍職をするようになっていた。
男女が反転した世の中では、男性は種付けのために存在すると考えられ、女性にジャッジされるという面もあるが、同時に、女性の将軍もまた、世継ぎを生むことが家の存続のためにあると過度に期待されている。家父長制というのは、生殖や恋愛が自分のためにあるのではなく、家のためにあるということでもあり、そのような期待をされると、個々人が「人として」生きている心地がしないことなのだということが強く見えてくる作品でもあった。
一方のバービーは、人形であるため生殖器を持たないが、最後にある場所に行って終わる。このシーンについては、いろいろな解釈はあるだろうが、自分の体を自分でケアしながら自分のものとして愛していくということが、人間として生き、そして老いて死に向かうということなのだろうと思われた。
『こっち向いてよ、向井くん』の向井くんに重なる、ケン
『バービー』は、ケンという存在についても考えさせられる作品であると書いたが、ケンは自分が何者であるのかを見つけられておらず、人間社会に触れて、男性主導社会、つまりが家父長制の甘い誘惑に感化され、一時はマッチョな思考になり、バービーたちよりも上位の存在でありたい、つまりパターナリズムに毒される展開がコミカルに描かれていた。現実をつきつけられて、笑うどころかちょっと可愛そうに思えたくらいだ。
このようなシーンを見ていて思い出されたのが、ねむようこの漫画が原作で、現在放送中のドラマ『こっち向いてよ、向井くん』だ。このドラマの主人公の向井くんは、「男は好きな女性を守るもの」と思っている人物であるが、元カノから「守るって何?」と言われ、いまだ自分が彼女を守れるような甲斐性がないからふられたと思い込んでいた。
向井くんは、「男とは」「女とは」というよくある考えに感化されているだけで、自分が本当に何をしたいのかが見えていない人物として描かれていた(ドラマが進むうちに、それが少しずつ向井くんに見え始めているのではあるが)。こうしたところは、人間社会に触れて、「男とはこうあるべき」とふるまうが、「それは自分自身の本当にしたい行動なの?」と問われるケンと似ている部分もあるように思えた。
こうして日本のドラマを重ねてみると、『バービー』は、戯画化されたアメリカの話という風に少し距離を置いて見る部分もあるが、こうして日本のドラマを重ねると、非常に身近な話として捉えることもできそうだ。