映画 『ウーマン・トーキング 私たちの選択』が伝える「対話」という希望。
第95回アカデミー賞®脚色賞を受賞した『ウーマン・トーキング私たちの選択』は、十数年前に起きた実際の事件をもとにした物語だ。映画の舞台は2010年。ある宗教コミュニティで連続レイプ事件が起こる。女性たちが訴えても男性たちは「作り話だ」と言ってとり合わない。やがて犯罪が明るみに出て彼らが逮捕されたのを機に、女性たちは話し合う。奪われた尊厳を取り戻すために、相手を赦すのか、闘うのか、自ら立ち去るのか、と。男たちが保釈されて村へ戻るまでの2日間。その対話が何を生み出したのかを、編集者の野村由芽さんとアートディレクターの脇田あすかさんが考えます。
「 互いを傷つけない水平な世界は、どうやって築かれるのか 」
野村由芽(以下、野村):今の私たちに必要な視点を伝えてくれる、重要な作品だと感じました。というのも、これは閉鎖的なコミュニティに生きる女性たちの話でありジェンダーの話でもあるけれど、居場所を追われた人や「ここに居られない人」が、ほかの場所で生きのびる手段や救いを見いだすという、普遍的な話でもあるからです。
脇田あすか(以下、脇田):女性たちが集まるのは村の納屋で、大きな干し草に座って話し合いをするんですよね。長机の両側に椅子を並べて……という形ではなく、ばらばらに腰かけて、途中で歩いたり場所を移ったりしながら自由に話す。子どもたちは絵を描いたり隣の子の髪を結ったりして。
野村:そう、対話の仕方がとても豊かで美しいんです。年長者だけが高い場所に座るのではなく、時には子供がみんなを見下ろす場所に座ったりする、水平な対話。
脇田:印象的だったのは、サロメという女性の固い意志が、対話を重ねる中で別の意見に変わっていく流れ。私は彼女の激しい怒りや憤りにすごく感情移入していたのですが、映画を観ながら、自分もその変化を体験していたというか。
野村:辛い目にあった女性マリチェも変わりましたね。奪われるばかりで、自分で考えることができなかった彼女が、対話を続けた2日間の終盤で、「自分がどう在りたいのか、を考えてもいいんだ」ということに気付く。それは彼女が権利を取り戻し、回復に向かおうとした瞬間だったし、私自身も考えることを促されました。
脇田:対話する時って、静かに見えても、頭や胸の中では思考や感が動き続け、変わり続けていると思うんです。それを無理に整理したりせず、年齢や立場とも関係なく、自由に発言できる場があったことが重要だった気がします。
野村:「嫌だと言う人が一人でもいるならば、きちんと話を聞く」という姿勢が貫かれていたのも素晴らしかったです。早く効率的に答えを出すことが優先されるのではなく、まず人間の心が守られていた。一人ひとりが納得していなければ集団の安泰もないことを、全員がわかっていたのでしょう。
脇田:それが誰かの「説得」によるものじゃないのがまた良くて。悩み迷いながらも、言葉を交わすことで感情や問題がほどけていく。
野村:答えを見つける時間を待ってくれる感じがありましたよね。
脇田:話し合いの記録係として唯一参加を許された男性、オーガストの存在も心強かったです。同じ過ちを繰り返さないためには被害者側と同様に加害者へのケアもきっと必要で、彼がその架け橋になるだろうと思えて安心できました。
野村:性差によって生まれている暴力の現実を描きながら、共に問題を考えていくための方法と可能性が、彼の存在を通して描かれていた。そしてこの映画では、悲劇の根本にあるのが「構造の問題」だと強調されているようにも思いました。乱暴をした個人はもちろん悪い。でもそれ以前に、暴力をふるっていいと思わされている環境があってしまった。構造の問題だと考えれば、今の社会でも近しいことは起きている。だからこそあの水平な対話は、彼女たちにとっても私たちにとっても、希望を拓くための濃密な手段なんです。
脇田:そうですね。男性たちの対話=マン・トーキングも必要かもしれないし、そこから加害者と被害者が何とか向き合う対話の形を、見つけられるかもしれない。それが次の希望。続いていく希望です。
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