児玉雨子のKANAGAWA探訪#19 番外編「2118年には生きていない私たち」――北九州・小倉で、女三人街ブラ休日

祖母と母と自分と、三世代の女性たちが揃った祖父の法事の席。雨子さんは祖母が背負っている「あること」を知る。小倉駅前を女3人でぶらぶらしながら雨子さんの心に去来したものとは。
「国際女性デー」にちなんだスペシャル版です。
夜の北九州空港は大寒波に包まれていた。十年に一度という触れ込みの寒波も、年が明けてから二、三度やってきている。飛行機の遅れがあったので、空港からのバスが終わっていたらどうしよう、とちょっと不安だったが、西鉄バスが気を利かせて飛行機の遅延分ダイヤをずらして待ってくれていた。
祖父の七回忌のため、二月末の三連休は母とともに小倉の祖母の家に行った。
小倉は地元ではないけれど、母方の祖父母が住んでいるのもあり、子供の頃からちょこちょこと行っていた。とくに小学生のころ、当時にしてはやや先進的な家庭で父も母も家を長期間空けることがあったので、大きな休みのたびにほうぼうの親戚の家に厄介になっていた。そのなかでも小倉はいちばん遠かったけれど、街のつくりが横浜と少し似ていて、心理的にはあまり距離を感じない街だ。夕飯は北九州のソウルフード「資さんうどん」を食べてから祖母の家に向かい、夜も遅かったのですぐに布団を敷き、毛布を二枚重ねて寝た。

七年前に祖父が死んだとき、祖母は涙を一滴も流さず「せいせいしたっちゃ、これからは悠々自適にスローライフ」と言っていた。ただの強がりにしては、心底から清々しい表情すら浮かべていた。祖父はユーモアがあって親戚中から慕われていて、葬式にも元同僚の方々が多く訪れてその死を悼んでくれたので、その発言は周囲をちょっとざわつかせた。
祖母はわりと爆弾発言をするひとだった。周りの空気を破壊する爆弾というより、本当にひとを傷つけてしまう発言をしてしまう時があった。
生前の祖父が、がん治療中に緩和ケア移行の意思を振り絞ったときも「いつもそうやって辛いことから逃げる」と、死を受け入れた人間に対して辛辣すぎることを言った。また、母がかつて私を出産したときも、長い陣痛でパニックになっている母に対し「いちいち大げさなんよ」と小言をぼやいていたらしい。昔から、他人に我慢を強いてしまうのだ。いろいろあって祖母に育てられた従姉妹も、あまり祖母とそりが合わないようすだった。
その爆弾発言の破片が私に飛んできたことはないけれど、それでもたまにぎょっとすることを言う。高齢者の言うことだから、と真に受けないできたけれど、なかなかパンチのある婆さんだなぁ、と苦笑しつつうまく接してきたつもりだった。
ところが今回の法事のあと、祖母の背負わされたものの重さの片鱗を知ることになる。

翌日、法事はつつがなく終わった。
その晩は祖母、母、私、そして叔父夫婦と、まだ小学校に上がっていない子どもたちで集まった。母方の身内は子どもが多くやや複雑な構成だった。私が「お母さん」のような呼び名を使っていると子どもたちが混乱するかと思い、小倉に来たら祖母を「K子」、母のことを「Sちゃん」と下の名前で呼ぶようにしていた。母のことをあだ名で呼ぶのは変な感じがしたけど、母も雰囲気を察して特にそのことについて触れなかった。
いろいろ話しているうちに、祖父方の親戚から渡されたという一枚の紙をK子が持ってきて見せてきた。
祖父、そしてもう二十年以上前に亡くなった曽祖父母たちの法要年のリストが、手書きでずらっと書かれていた。厳密な年や回忌は覚えていないので一部は伏せるが、こんなふうに書いていてあった。
祖父 七回忌……2025年
曽祖父 三十三回忌……202X年
祖父 十三回忌……203X年
曽祖母 三十三回忌……203X年
祖父十三回忌……203X年
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祖父 百回忌……2118年
ほとんど二年に一回のペースで法事を開くような指示が出ていて、ご丁寧にそれぞれの百回忌まですべて書き取られている。別にどの親戚を探しても宗教に熱心なひともいないから、あまりに滑稽で思わず笑ってしまった。
「2118年なんか、ここにいる人みんな生きてないのに!」
Sちゃんと顔を合わせてそう笑っている一方、K子は神妙な面持ちで「(祖父の)十三回忌の時は私も九十過ぎとるけ、誰かに頼むしかない」とうなだれていた。
「もう、今日ので充分やろ」と母が怪訝な表情で返した。現在独身のSちゃんは還暦でもバリバリ働いている。もちろん自己実現のためだろうが、女一人で過ごす老後資金を確保する目的もあるのだ。それだから、お金の心配もせず百年後の法事のリストを作っている親戚たちに対して、Sちゃんにも思うところがあるのだろうか。
K子はむにゃむにゃと唸りながら、その紙をしまった。はっきり言わんから問題が先送りになるんよ、とSちゃんが諌める。そんなん言えんち……とK子が力なく返す。さっきまではおもしろかったけれど、普段はあたり構わず爆弾発言ばかりするK子の歯切れの悪いようすに、全然笑えなくなってくる。
おそらくK子は、80代後半になっても、「嫁」という立場から逃れられないままでいたのだ。

あのメモを書いたひとは、2118年なんて数字を書きながら、おかしいと思わなかったのだろうか。ふつうに考えれば、そのころに「嫁」は(それどころか孫の私だって)生きていないだろうとわかるはずだ。K子は本来ならケアされるべき高齢者なのに、「嫁」という立場を理由に、死んだあとも死んだひとのケアを当たり前に任されている。言葉にすればこんなにもばかばかしい話なのに、こと「家」という話となると、ひとひとりの寿命さえこうして簡単に忘れ去られてしまうのだ。
K子の爆弾スローライフ宣言には、こういう問題が根底にあったのだ。しかも夫が死んでもなお、まだ縛られている。忍従に忍従を重ねているから、人の痛みにも自分の痛みにも鈍感になってしまったのだろうか。やりきれない思いのまま、小倉法事旅二日目を終えた。
三日目は三人で小倉駅周辺をブラブラしながら、小倉みやげに旦過市場にある「旦過うどん」のだしを買いに行くことになった。K子は高齢であまり長く外出できないだろうから、夜は家で何か作って食べるか、作るのが面倒ならまた資さんうどんを食べに行こうという話になった。
ところが、私が過眠で昼一時まで寝こけたせいで、一日のスタートがずるっと遅れた上に、K子の老年性のボケとSちゃんの時間通りの行動ができない気質で、支度に二時間かかった。トラブルはそれだけに止まらない。Sちゃんは昔から超がつくほどの方向音痴な上に、どうしても他人と歩幅を合わせることができず、間違った方向へバタバタと歩いていってしまう。
私はそこまで小倉の土地勘がないので、早く歩けないK子に腕を貸しながら、十メートルほど先を歩くSちゃんのあとについて行っていると、ふと同じところをぐるぐると回っていることに気づく。Sちゃんに道案内を任せてはいけなかったことを思い出し、慌ててスマホの地図アプリで目的地までの軌道修正をしようとする。しかしK子が道のど真ん中で立ち止まって、古い思い出話をはじめてしまう。高齢者を無理に引っ張るわけにいかず、立ち止まって話を聞く。次第にSちゃんの姿が見えなくなって焦る。
そうしてやっとたどり着いた旦過市場の「旦過うどん」は、定休日だった。

何も戦利品がないままでは帰れない。小倉駅前に戻り、シロヤのサニーパンやミニヨンの明太子ミニクロワッサンなどを買い、デパートに入っているカフェで夕食をとって、なんだかんだで夜の七時になっていた。
かなりグダグダな一日だった。高齢のK子はともかく、どうして私もSちゃんももっと効率よく動けないんだろうかと、自己肯定感が下がるようなダメな一日だった。
それでもK子は「こんな真っ暗まで街に出るのは久しぶり」とうれしそうに言っていた。

帰京する日、高速バスの時間に遅れないよう少し早めに出ると伝えると、K子は「あぁ、みんな元に戻っていくね」とぽろっと漏らした。夫が死んでもあんな調子だった彼女から、弱音を聞く日が来るとは夢にも思わなかった。ひとの人生をなんだと思っている、と伝統的な風習に対して憤慨しておきながら、私こそK子のことをどこか変わり者で、自分とはちがう最強の存在だと思っていた節があったのかもしれない。
K子に挨拶のハグをした瞬間、つい数日前の自分の「2118年なんか、ここにいる人みんな生きてないのに!」という言葉がふと浮かんできて、はかない気持ちが通り過ぎていった。
どうせ2118年まで、ここにいる誰も生きていない。あのメモを渡してきたひともとっくにいない。そしてどうせ誰も何も覚えていない。だから好きなように生きて、耐える必要のないことはもう耐えなくていい。夫もいない。子どもも孫もほとんど独り立ちした。あなたはあなた。今までもこの先も、ずっとあなた。
そんな思いがこみあげてきた。もっと話したかったけれど、空港バスの時間も迫っていたので、祖母の胸から離れて「体に気をつけて」と声をかけた。
K子はさっさと行け、という顔で手を振った。
アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。著書に第169回芥川賞候補作『##NAME##』(河出書房新社)、『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)等。17人の作家によるリレーエッセイ集『私の身体を生きる』(文藝春秋社)に参加。