「サイエンスは再演す」――はまぎん こども宇宙科学館で、科学にふたたび触れる。|児玉雨子のKANAGAWA探訪#17

「サイエンスは再演す」――はまぎん こども宇宙科学館で、科学にふたたび触れる。|児玉雨子のKANAGAWA探訪#17
「サイエンスは再演す」――はまぎん こども宇宙科学館で、科学にふたたび触れる。|児玉雨子のKANAGAWA探訪#17
TRAVEL 2024.12.19
神奈川県出身の作家・児玉雨子さんによる地元探訪記。今回は、横浜市磯子区洋光台にある「はまぎん こども宇宙科学館」へ。1984年にオープンした体験型科学館。子どもから大人まで宇宙や科学について学べる施設です。館全体を巨大な宇宙船をイメージしているそうで、児玉さんもふしぎの世界に浸りました。

はまぎん こども宇宙科学館

〒235-0045 神奈川県横浜市磯子洋光台5-2-1
*JR京浜東北・根岸線「洋光台」駅 徒歩3分

(公式サイト)https://www.yokohama-kagakukan.jp/

 小学校の、たしか3年生の夏休みに、家族ぐるみで付き合いのあった友達に連れられて3泊4日程度の伊豆サマーキャンプに行った。運営母体はわからない。YMCAなのか、ガールスカウトなのか、何かほかの団体なのか。

 最終日の夜は、班のみんなで伊豆の海岸に寝転がって夜空を見上げた。いろんな星や星座の名前を教えてもらっていると、次第におびただしい星の数に吸い込まれそうで、おそろしかった。街の光にかき消されていない夜空を見るのは初めてだった。満点の星空は剥き出しの宇宙で、自分は世界のどん底にいるという無力感のようなものが迫ってきて、そのあとのことはあまり覚えていない。

 そういえば、十代後半になって、ケミカル系企業に勤める親戚に化学方程式を教えてもらったことがある。私はそのとき算数レベルの方程式が理解できず「どうしてこうなるの?」と質問したら、彼はじっと黙って「わからない。何か大いなるものが、そう決めた」と神妙な面持ちで返したのだ。私が訊きたかったのはそんな高次元の話ではなかったけれど、親戚の表情は真面目そのものだった。サイエンスから逃げよう。宇宙や科学に触れるとどうなるかわからない。それならアート(人為)の世界に行きたい、といったようなことを私は考えた。

 しかし、サイエンスは生活を離してくれない。

 十年に一度、イケイケの起業家がロケットを開発して話題になる。人工知能が日進月歩で発展している。私もこう見えて、作詞したもののデモを作るときにいろいろなプラグインをいじくりまわす。「はまぎん こども宇宙科学館」のことは以前からチェックしていたのだが、ここ近年の世界の様相をみて、ふたたび科学に触れ直してもいいだろう、と思い足を運んだ。

 たくさんの花が活けられた駅から徒歩3分ほどで到着するこの宇宙科学館は、平日ということもあって空いていたものの、ちらほらと子ども連れや大人のグループ客もいる。

 5階まである大きな施設で、プラネタリウムで独自のコンテンツも上映される。そして何よりその施設のデザインがかっこいい。仙田満(環境デザイン研究所)が建築したそうで、照明のひとつひとつにまでこだわりが宿っていて、心が踊った。

 横浜銀行のマスコットキャラクター「はまペン」のバルーンが悠々と浮上しては、ゆっくりと1階へ落下してゆく。私もそのバルーンのように、5階から1階へと降りてゆくように鑑賞した。

 どの展示にも惹かれたけれど、おもわず涙が溢れてきたのは5階「宇宙船長室」から聴こえてきた「15度の斜面」という歌だった。私はイーロン・マスクではないのでそこまで月面への憧れがないのだが、この歌が流れてきて、下りのエレベーターに乗り込もうとした足が止まった。

「15度の斜面」は、SLIM(JAXAの小型月着陸実証機)が果たした月面での越夜成功を紹介する映像コンテンツの、いわば主題歌のようなものだった。モニターに映される映像と歌詞とメロディの距離が、近すぎず、また遠すぎてもいない言葉で物語られる。

 ボーカロイドIAが「はじめて見たはずの景色は 見覚えのある場所ばかりで」と歌い、はやぶさ2自身が残した月面写真が表示される。それはほとんどエコー写真に見えてしまった。健康診断の腹部エコー、あるいはお腹の中の赤ちゃんのエコーにもよく似ている。あんまり行きたいと思ってこなかったのに、突然思い出したように月への思慕をかき立てられる。歌の役目って、こういうことじゃないか。私もこんな歌詞が書けたらいいのに。

 ちなみに「15度の斜面」というタイトルは、SLIMが着陸した月の地平線の角度で、その情報発信担当である虹川助輔さんが作詞作曲をされているそうだ。音源はウェブ上で聴けるが、ぜひとも配信してほしい……。

 それから2階にある宇宙発見室「スペースラボ」では、プラズマ、真空管、雷発生装置「放電ショウ」などに触れてみる。

 決して言い訳にはならないが、私は私立文系出身なのもあり、実は真空管アンプの仕組みがよくわからないままふわっと音楽の仕事に関わっていたのだ。むしろ、空気がなければ音は鳴らないのではないか? と毎回混乱するのでまともに考えないようにしていた。展示には、そもそも空気が絶縁体なので、音を電気信号に変換するためには真空状態にしなければならない、とやさしい言葉で記されていた。

 私の理解が正しいのかはわからないけれど、私はその説明に深く納得してつい「ああ〜!」と声をあげてしまう。脳の中のユニヴァースがひとつ拡張した。知るという喜びに、文系も理系もない。

 別途でチケットを購入しておいたプラネタリウムの上映時間が近くなり、1階のエントランスへ戻る。プラネタリウムでは星空だけではなく、番組も投影されるそうだ。この回は「プラネタリウム ドラえもん 宇宙の模型」を観ることができた。この連載でもちょうど去年あたりに登戸の『川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム』に行ったが、ここでも彼らとふたたび出会えた。

 同じ投影回に入った、はじめは落ち着きがなく親に話しかけてしまっていた子どもたちも、ドラえもんが見せてくれる宇宙の模型(ひみつ道具「天球儀」)に夢中になり、その後のプラネタリウムのスタッフによる解説つきの投影に、しだいに言葉数が減って見入っていた。

 私はというと、スネ夫が自慢話をするときのBGMに笑いを抑えられなかったり、広大すぎる宇宙の情景に恐怖したり、すべての星は細胞のようだと思ったり、鼻水を啜り、服の袖で目頭を何度も押さえたりして、ぜんぜん落ち着けなかった。それでも、横浜の夜空の投影がはじまってからは、スタッフのやさしい声と語りに吸い込まれるように鑑賞した。投影されたものであっても、空を見上げながらひとつひとつ星の名前を教えてもらうのは、伊豆のサマーキャンプ以来だった。

「天文学」と「文学」はその文字の通り、ほとんど同じ仕組みだとも思った。同じような粒にしか見えない星にも代替不可能の特徴があり、それぞれの背景があり、年齢があり、温度があり、座標があり、抱えた問題がある。それらを解明し、あるいは物語る営みなのだ。そして名前も知らない者どうしが横浜市内にプラネタリウムに集まり、再演された空を見上げながら星の事情を知ってゆく。それ自体が星座のような現象だ。

 ねぇ、私たちは、この瞬間にひとつの星座を成せたかもしれないよ!

 そう斜め前の子供に語りかけたかったけど、親御さんにとっては恐怖だろうから、なんとかその衝動を抑えて席を立った。

 かつて親戚が「何か大いなるもの」と呼んだものの正体は、私にはわからない。彼はとうに星になってしまったから、改めて訊き直すことはもう叶わない。それは神(ロゴス)かもしれないし、単なる偶然かもしれないし、地球外生命体かもしれない。「正体」という考えが、私の矮小な発想なのかも。その「何か大いなるもの」は合理的で、情緒的で、美しいものなのは確かだろう、とプラネタリウムで思いを馳せた。

 大人になっても、理系進学をしていなくても、再演された星空にため息をつき、何度も見損なってきたはずのこの世界を、ふたたび慈しみたくなる展示の連続だった。

 サイエンスは私たちの「ふたたび」にやさしい。

児玉雨子
作詞家、小説家。

アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。著書に第169回芥川賞候補作『##NAME##』(河出書房新社)、『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)等。5/24発売の17人の作家によるリレーエッセイ集『私の身体を生きる』(文藝春秋社)に参加。

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