児玉雨子のKANAGAWA探訪#15「眼前を駆け抜けてゆく世界こそがほんもの」――川崎港町・川崎競馬場で競馬デビュー
神奈川県出身の作家・児玉雨子さんによる地元探訪記。今回は、世界最大級のドリームビジョンと広い芝生広場を有する川崎競馬場へ。「勝負師」だったというお祖父さんのことを思い出しつつ、人生初の競馬に挑戦してみました。
川崎競馬場
〒210-0011 神奈川県川崎市川崎区富士見1丁目5番1号
*京急大師線「港町」駅 徒歩3分
*京急線「京急川崎」駅 徒歩12分
*JR東海道線・京浜東北線・南武線「川崎駅」徒歩15分
人間には二通り存在する。それは大人対子どもでも、女対男でも、陽キャ対陰キャでもなく、勝負師かそうでないかだと私は思う。とくにそれはお金の使い方に顕著で、私の身内にはたまに変な勝負師がいた。特に祖父は建築・不動産によって一代で財を成して、親戚たちは関西でちょっとした貴族みたいな生活をしていた。横浜にいた私もほんの少しだけ、その恩恵を受けられた。私と入れ替わるように死んでしまったので、祖父の顔は思い出せないけれど。
祖父は資産を作ったが、同時に多額の負債も残した。住宅ローンのような表現を濁したものではなく、むきだしの「借金」だ。それに振り回された影響か父親は非常にお金に細かくて、私には常々ギャンブルをするな、ギャンブルのような人生を送るな、と言ってきた。本人は覚えていないだろうが「おまえはせっかく顔がいいのだから、派手な学歴や職歴なんてつけず、経済力のある適当な男と結婚して家庭に入るのが安牌」と私に向かって話したことがある。今も心底では許していない発言だが、しかしそう思わせるほどの状況だったことも理解できた。他にも借金で首が回らなくなった親戚がいて、私にとって借金はけっして対岸にいる他人の話ではなく、同じ岸に住まう者たちが抱える問題だった。
私はというと、父親の言葉にうんともすんとも答えず大人しく振る舞いながら、ギャンブラー側の人間であると子どもの頃から自覚していた。わざわざ強く反発はしなかったが父親が敷いたレールはしれっと全て脱してきた。当時通っていた一貫校の付属大学には進学せず、新卒就職もせず、さんざん食えないと言われていた文系院進をし、それでもこうして物書きという形のない仕事で生活をなんとか続けられている(読者であるあなたのおかげです。ほんとうにありがとうございます)。だからこそ、せめて仕事にかかわらない娯楽とは三十年ほど意識的に距離を置いていた。
しかしそれもとうとう我慢できなくなった。この数年で友人がぞくぞくと競馬にはまり、ゲームコンテンツが流行り、きわめつけに九段理江さんの小説『しをかくうま』を読み、もう私の興味の蓋がぶっとんでばらばらに割れてしまった。そして私の気まぐれに付き合ってくれる学生時代の友人を誘って、この日は川崎競馬場のある京急川崎大師線の港町へ向かった。
駅に降り立つと、まず目に飛び込むメロ譜の壁。「長い旅路の航海」という歌詞どおりに、タイで結ばれた長い歌い出しが特徴的な、あの歌だ。寡聞にして知らなかったのだが、なんと川崎競馬場にある港町(みなとちょう)駅は、美空ひばり「港町十三番地」のモデルになった場所だそうだ。本邦の音響・音楽産業の草分けであり、美空ひばりが契約した日本コロムビアの本社は1965(昭和40)年以前、工場は2007(平成19)年までこの一帯にあったらしい。
おもわぬところで大歌姫の足跡を追うことになった。ちなみに、この港町は正確には九番地にあるが、作詞家の石本美由紀が語呂を優先して十三番地に変えたそうだ。やはり、私は思ったことをそのまま説明しきってしまう歌詞より、ほんの少しでも虚構の混ざった歌のほうが好き。虚構は嘘じゃないけれど、事実でもないから忘れられなくなる。
さて話は寄り道したものの、港町駅から川崎競馬場へは徒歩3分ほどでシンプルな道筋だった。昼下がりに駅前で待ち合わせた友達とてくてく進んで、事前にネットで予約して入手しておいたQRコードでさながらファストパス入場。「へー、川崎競馬場ってめっちゃ綺麗じゃん」と慣れた足取りで競馬場を見回す友達の後ろを、緊張の汗をかきながら着いてゆく。
事前に調べたパドックなる場所に連れて行ってもらうと、当たり前だけど厩の匂いがして、でかい馬たちがぐるぐると歩いている。
ここで馬の調子を見て、それも踏まえて一番早く走る馬を予想するらしいのだが、はっきり言って毛の色しかわからない。友人が「あの子ギャルっぽい」とか「あの子はテストギリギリまで机に突っ伏して寝てるやつ」とか妙に解像度の高いたとえをしてゆく。
ギャル? テスト? わからん。 「馬だ! でかい! かわいい!」それ以上の感情はない。血統なんて見た感じではわからないし、筋肉のキレとか体型とか、みんなそれなりに鍛えられている馬じゃないの? 違いなんて本当はわかってないけどわかったふりしているんでしょう? とパドック内を食い入るように見ている人たちにドン引きする。(すみません)
競馬チャレンジは失敗だったかなぁ、と気を落としていると、パドックの中で一頭の馬が少し暴れた。あのギャル馬だ! よく見るとギャル馬には尻尾に赤いリボンがつけられている。そのリボンは蹴癖のある馬につけられるそうで、あまり近くに寄らないほうがいいらしい。
友人はパンフレットで日差しを遮りながら、今日は乗り気じゃないんだねぇ、とギャル馬の気持ちを見事に言い当てる。あんた、そんな「この歌、私のこと歌ってくれている」と思わせる天才ミュージシャンじゃないんだから……と思いながらパドックを出て、いよいよあのマークシートを手にする。
パドック解説者の予想を踏まえながら、先ほど見た馬の好みも踏まえて複勝の予想をしてみる。ちらっと見やった友人のシートは複雑な位置にいくつも黒点が塗られていて、とつぜん不安になって一気に変な汗が噴き出る。大学から数えると十年来の友人だが、こんな勝負師なの? と内心ちょっと引いていた。
鉛筆を入れてゆくと、馬券のマークシートが、ただの模様から意味のある情報に変わってゆく。馬券でもなんでも、さっぱりわからない記号や文字の羅列が読めた瞬間は、世界が一気に拡張するようでくせになる。そしていよいよ発券機で馬券を購入……というところで、トラブルが発生した。
財布がないのだ。何度見ても見当たらない。ここまではSuicaで来てしまったし、行きのコンビニもApple Payで決済してきたので気づかなかった。バッグの中で腕をかき回すたびに血の気が引いてゆく。
友人に泣きつくと、あなたってほんとうにあなただよね、と大笑いして現金三千円を貸してくれて、なんとか馬券を購入できた。競馬関係なく遊興にのめりこんで借金をするひとが多いが、私の競馬デビューはそもそも借金スタートであった。(友人にはその場で電子マネーで返した。ちなみに財布も自宅にあった)
人から借りた金で買った馬券を握りしめながら、競馬場内でレースの開始を待つ。1500メートルのレースだ。
いよいよ馬がゲートに並び、いっせいに開く。ドリームビジョンという名の大型スクリーンに馬が映る。わーはじまった、と軽やかな気持ちでスタートした馬たちを遠くから眺め、せっかくだからもっと近くで見ようとスタンド前へ出てみると、コースを半周ほどした遠くから地響きと共に馬の集団があっという間にこちらにやってきた。パドックではかわいく見えた馬たちが壁のようにそびえ、蹄音とともに眼前を通り過ぎていった。あっけにとられていると周囲がいっせいに歓声を上げる。友人もなんか叫んでいる。一着の馬がゴールし、ぞくぞくと馬たちがゴールに続く。
スタートからゴールが、早すぎる! そして速すぎる!
何もかもが一分程度しか経っていない!
呆然としていると「てか児玉、当ててない?」と友人が私の馬券を覗き見る。何事だと慌てていると、ドリームビジョンに払戻金が掲載される。複勝なので決して大勝ちではないが、ちょっとだけ勝っているではないか。ちなみに調子がよくないギャル馬は成績不振で、パドックではダラダラ歩いていた「テストギリギリまで机に突っ伏して寝てるやつ」の馬が後半でごぼう抜きしたらしく、上位三着に入っていた。
しばらくあの一分の出来事が鮮明で、そのあとすぐに始まるレースに気持ちが追いつかず、パドックを見に行ったり解説に聞き入ったり、何も賭けずに馬を眺めながら友人と近状報告をしながら、瞬間的興奮を覚ましていた。
学生時代ともに過ごした友人も独特のキャリアを邁進し、先日国際結婚したばかりだ。現在、夫婦同姓が原則の日本では選択的夫婦別姓の議論がリアルタイムで進んでいるが、国際結婚の場合に限りすでに別姓が選択できる。それを聞いておもわず、いいな~うらやましい! と大声をあげてしまう。
(読者の方々が誤読されることはないだろうけど、私が結婚そのものを羨んでいるというより、選び合えたひとと名前を変えずに法的に結婚できるという、本来当たり前である権利を持っていることが、うらやましいのだ。そしてそうでないひとに選択肢がないのが問題なのだ、と付記しておく)
友人と出会った18、9歳の頃はいろんな感情を飲み込んでしまいがちだったけど、さすがにここ数年で素直に「うらやましい」という言葉を口にできるようになった。感情にはとことん向き合ってどんどん出してしまったほうがいい。なかったことにして溜め込むと、自分の中で言葉が中毒を起こしてしまう。たとえば私の場合なら制度への不満がねじれて「結婚している人間は全員嫌い」と的外れなヘイトを醸成させてしまったかもしれない。そうならないように、臆さず言葉にする。友人もそんな私に、うん、よかった、とさわやかに笑い返してくれる。
やっぱり選択的夫婦別姓がいいよね。なんとなくで決められているしきたりって、真面目に向き合うとばかばかしくてやってられないよね。そんな弱音も漏らしながら、目の前で馬がひとつのゴール目掛けて疾走する脇で、友人はビール、私はソーダをちびちびと飲んだ。
人生は競馬で、競馬が人生だという言説をたまに目にする。もし私たちの人生にレースがあるとするなら、もう私たちはそれぞれ違うレースに参加しているか、場外に脱走してきたんだと思う。なんか偶然近くにいて、なんか速度やノリが選ぶ方向が似ていて、たまに寄り添ったり離れたりしているかんじ。少なくとも私にはそれが向いていて、それをおかしいと馬鹿にしない友人に恵まれた。たまにギャル馬のように調子が悪い日もあったり、急に速く走れる日もあったりする。そういうことでハマるのかー、と少しずつ納得する。
なんだかんだふたりしてナイターまで粘って、最終レースでは私も三連複と初心者にしては少し凝った予想をしてみたが、すんでのところで負けた。悔しくてあんまり計算してないけれど、たぶん一日で300円くらいは負けたと思う。
今年の早春、祖父の遺産で暮らしていた祖母が息を引き取った。父親が姉夫婦とともに実家じまいの話をしている話を聞いた。父が三十年近くあぐねていたお金の問題が、この一年足らずで地響きとともに駆け抜けていった。今では祖父の負債は残っていない。もちろん資産もない。元職人だった祖父自身が建てた立派なお屋敷みたいな家々のあとさきを、私は知ろうとも思わない。誰かが住んで、引っ越して、売却されて、綻び、やがて壊されるだろう。
憑きものが取れたのか「違う」「おまえは何もわかっていない」が口癖、そして金金金……で強権的な父が、私の反論に「そうか、わかった」と一言落として黙するようになった。そして彼が手塩にかけてふつうになるよう育てた私は、きっとこの先も法律婚しないし、競馬に魅入られているし、弱ってゆく父との向き合い方に戸惑いながら、狭い賃貸マンションの一室で形の残らない何かを今こうして書いている。できればこの先も、書いてゆく。
アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。著書に第169回芥川賞候補作『##NAME##』(河出書房新社)、『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)等。5/24発売の17人の作家によるリレーエッセイ集『私の身体を生きる』(文藝春秋社)に参加。