「46億年の中の終わらない閃光」 ――小田原市入生田「神奈川県立 生命の星・地球博物館」へ約20年ぶりの再訪 | 児玉雨子のKANAGAWA探訪#13
〒250-0031 神奈川県小田原市入生田499
*箱根登山鉄道「入生田」駅 徒歩3分
酷暑のどん底に南海トラフ地震注意報が飛び込んできた。水や備蓄食品の買い占めが起こる中、私はハンディファンを購入した。焼け石に水かもしれないけれど、停電してエアコンが使えなくなった時に少しでも涼しくいられるんじゃないか……なんて冷静に考えたわけではなく、気が動転して通りすがったFrancfrancで衝動買いに走ってしまったのだ。
ところが、これがなかなかいい買い物だった。折りたためる形なので首からかけてもデスクファンとしても使えて、さらにモバイルバッテリー機能もあり、いざという時の備えにもなる。ぬるいそよ風でも、何もないよりはましだった。
そうして得意げに首からファンを提げて、今回は小田原市の入生田にある神奈川県立生命の星・地球博物館に向かった。というのも、以前から当連載でここには行きたいと目星をつけていて、ちょうどお盆の時期に、夏休みっぽいところに行ってみることにした。
実はこの「生命の星・地球博物館」には一度行ったことがある。正確ではないが、たしか小学校高学年の頃に校外学習で見学したはずだ。正面の常設展入口にある地球の年表を前にして、思わず懐かしさに息が震えた。ほとんど覚えていないと思っていたけど、記憶はそれなりに焼きついているらしい。
幼い頃は自然や科学系の博物館に迷い込む夢をよく見た。広くて天井の高い施設に、天球模型、鉱物、骨が展示されていて、自分の寄るべなさ、存在のあまりのちっぽけさに魘されて目が覚めることもしばしばあった。
昔はそんなふうに怯えていたけれど、今ははるかな生命史の展示に目頭が熱くなってくる。子供連れの客が多い中で30歳の独身女性がひとりで感極まって泣いたら恐怖の絵面じゃないか? というためらいを、次々とあらゆる展示や化石たちが薙ぎ倒してゆく。私がいったい何者で、どんな社会的な記号をもっているかなど、忘れてしまうような迫力があった。私はこの美しい惑星の表面に棲息する生命体であって、他のなんでもない。
とくに胸を打たれたのは「漣痕(れんこん)」だった。俗に「波の化石」とも呼ばれる、館内に聳え立つ地層のことだ。海底や河床の表面に水や空気が流れることで形成した波状の模様が、数十億年も昔の海の様相を遺している。巨大地震注意報が発令されたのもあるのか、常設展冒頭の地層に関する展示は、じっくりと説明を読んでいる来館者が多かった。有機物か無機物かは関係なく、かつて存在したものの痕跡が堆積しているということに、畏怖の念のようなものが込み上げては溢れた。
「珪化木(けいかぼく)」という、化石化した樹木にも息を呑んだ。何千万年と長い年月をかけて植物の組織が二酸化珪素に置き換えられ、その樹木の表面が光沢を持ってつやつやしているのだ。
それから恐竜をはじめとした動物の展示は来館者を圧倒する構成になっていて、頭上を飛んでゆくように吊るされている鳥類の剥製や、今にも動き出しそうな化石たちから、生物多様性の尊さを感じる。
ところで話が変わるのだが、「歴史に名を残したい」とか「◯◯史に残るような作品」といった言説を聞くたびに、何かを言い返したくなっては言葉が見つからずもごもごして黙る、という場面が今まで多くあった。それは名誉欲や征服欲みたいなものだと思っていたのだが、そういった表現だけではその欲望は穿ちきれていないような感じがしていたのだ。
生命の星・地球博物館はその名の通り地球史を取り扱っているので、人類史に関してはあまり深く触れていない。人類に関してはDNAや環境汚染についての説明や、「ジャンボ・ブック」という巨大百科事典形式の展示の最後にほんのすこしだけ触れられているだけだ。人類は、地球史の中でまだ化石にもなれていない新生物にすぎないということを思い知らされる。
「歴史」という言葉の範囲は、文字によって語られた人間のこれまでのことだ。文字がこの地球上に存在していたのはつい最近のことで、「歴史」以前のまだ文字のない考古学も、人類の文明や実相を探る学問にすぎない。(言うまでもないけれど、歴史や考古学の研究者への敬意は心底から抱いている。学問は、気の遠くなるような、しかしかけがえのない人類の営みだ)それらよりずっと前からたくさんの生き物が生まれては絶えてゆくまでを見つめてきた地球の上で、「歴史に名を残したい」という欲望を受け取ることに、どこか気恥ずかしさを覚えていたのかもしれない。
もちろん私にだって、向き合いたくないだけでそういった感情はある。褒められたらうれしくて舞い上がってしまう。自分が調子乗っているときや、他者から「歴史に名を残したい」と言われたときに脳裏に掠めるのは、永遠によく似た地球の記憶のことだったのかもしれない。
そうすると「どうせ死ぬんだから何をやったって無駄」「他人や後世に役に立たないことをがんばっても意味がない」という、破滅的な考えに陥りやすくなりそうな気もする。じっさい、昔の自分はそういうナルシシズムを抱いていたと思うし、この日は何度も「愚かで哀れな私たち(※人間)でごめんなさい」と何度も『宝石の国』のアユム博士のセリフが浮かんでは化石や鉱物の展示に感動して、そんな気持ちもあっという間に忘れ去っては、また大いなるものへ謝罪したくなる、ということをくり返していた。
人類として生まれた原罪のようなものに葛藤しつつ、同時に、私はこんな奇跡の果てに生まれ、今ここに存在しているんだ……と誇らしいような気持ちに満ちてもいた。アユム博士のセリフには他にも「傲慢よね。ここに偶然、私がいただけ」があるけれど(どういうシーンかは、ぜひ読んでみてください)ここに偶然いることができたのなら、歴史に名を残せなくても、好きなように私でいていいよね? と開き直りながら、約20年ぶりの生命の星・地球博物館を後にした。
帰りは小田原の日帰り温泉でも寄ろうかと画策していたが、同居人が翌日誕生日を迎えることを思い出し、最初におめでとうって言いたくてとんぼ帰りすることにした。巨大地震注意報のことはもうすっかり忘れちゃっていて、ロマンスカーの中のアナウンスでそのことを思い出した。先日注意報発令した翌日に、厚木市で関東大震災とほとんど同じ震源で大きな地震があったため、一部区間はいつもより速度を落として走行していたらしい。関東大震災は約100年前のこと。
iTunesプレイリストのシャッフル再生で宇多田ヒカルの「Electricity」がイヤフォンから流れてきて、ぼんやりその歌詞をスマホで眺めていると涙腺が緩んできて、ひとりしとしと泣いた。文字や言葉はこんなにも頼りない。だからこそ私は書き続けたいし、プライベートでも仕事でも、大切なひとたちに言葉をもっと差し出してゆきたい――と思いながら、はっと我に帰る。惑星の表面上をロマンスカーで疾走しながら泣いている生命体って、やっぱり恐ろしい存在かも……。
アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。著書に第169回芥川賞候補作『##NAME##』(河出書房新社)、『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)等。5/24発売の17人の作家によるリレーエッセイ集『私の身体を生きる』(文藝春秋社)に参加。