「本という扉と、フジツボの街」 ――白楽・ブックカフェ「はるや」で書評エッセイ集を読む | 児玉雨子のKANAGAWA探訪#12
〒221-0065 神奈川県横浜市神奈川区白楽103
*東急東横線「白楽」駅 徒歩1分
(公式Xアカウント)https://x.com/kohiyamaso
嘆かわしいことに、今住んでいるところの周辺には書店らしい書店がない。隣町までチャリを飛ばせば駅ビルに新刊書店が入っているのだが、あまり大きい店舗ではないのもあり、書店員の方々のご尽力があってもどうしてもFIREや自己啓発本が店舗面積を占めやすい。そういう本もたまに読むならおもしろいけれど、個人的には読書中くらい経済や自己研鑽の渦からは解放されていたいので、そう次々と手に取れないのが本音だ。
さらに新刊が出ていないならそうなるのも当たり前なのだが、自分の本が並んでないとそれなりにショックを受けてしまう。こういう悩みは、書店や出版不況云々ではなくとにかくひたすら私が不甲斐ないだけなので、ぶーたれていないでおもしろいものを書くしかない。
けっ! 熱心なオタク以外CDやレコードなんてもう買ってないくせに、書籍のときだけ「やっぱりアナログが一番だよね」と気取りやがって! となかば逆張り精神でKindleを使っているのだが、 新刊書店や古書店に行って紙の本を眺めると、やはりそれなりに気分が上がるのもまた事実である。そんなこともあり、このごろは個人経営のブックカフェを調べてはちょっと足を運んでみている。
白楽周辺は、その字を東横線の路線図上で眺めるだけでむず痒くなってくるほど実家周辺のエリアなのだが、2022年にオープンした「はるや」のことはちょこちょこWEBメディアなどで目にしていて、Googleマップの行きたいところリストにマークして温存していたのだ。ただ、ここまで来たら、もう実家に顔見せないといけない? 今はそういう気分じゃないんだよなぁとためらうほどの近所で、勝手に私が行きづらさを覚えているお店ではあった。「はるや」さんは何も悪くない……。
この日は髪を切って身も心もさっぱりした帰りに、今日はなんだか白楽方面に行ってもずーんと来る感じがしなさそうだと思い立って、白楽に向かってみた。「はるや」は白楽駅東口を降りてすぐにあり、手作りのお店の旗も目立つ。階段を上がってお店に入ると、オーナーの小檜山想さんと草野史さんが気さくに迎え入れてくれた。
まず目を惹く壁一面のマルゲリータの本棚に陳列されているのは「はるや」で販売している新刊本で、ここにある本は購入後に席で読める。選書もフェミニズムから金融にまつわる本まで幅広いのに、決して「あ〜この本ってどの書店でも見る〜」というラインナップではないのだ。
選書もさることながら、マルゲリータの本棚は眺めているだけでも楽しい。ベタかもしれないけれど、やっぱり憧れる。次引越ししたら本棚はマルゲリータにしたいなぁ〜などとうっとり熱中してしまい、撮影許可も得ずに私はスマホのカメラを向けてシャッターボタンをタップしまくってしまったのだが、小檜山さんはかろやかにOKしてくださった。
そしてここは新刊だけでなく、物々交換コーナー棚と誰でも読んでよい古書棚もある。この日はまだ読み終わっていない原作ムーミンの単行本しか持ち合わせていなかったので物々交換は断念し、古書棚から本を選ぶことにする。
飲み物は迷いに迷って、ベタに夏限定ブレンドのアイスコーヒーを注文した。食事メニューも豊富なのだがあまりお腹減っていなかったので、次回は絶対プリン頼むんだ、と心に決める。本は村田沙耶香さんの書評エッセイ集『私が食べた本』(朝日新聞出版 2021)にした。創作も好きだけど、書評って読むのも書くのも好きだ。小さくてひそやかな読書会を開いているような気分になれる。
と、書評エッセイ集であることを理由に手に取っておきながら、もっとも強く胸をうたれたのは、最後に収録されていた村田さんによる西加奈子さんにまつわるエッセイだった。いわく、村田さんはそれまで三人の人間に「西加奈子と仲良くするのをやめろ」といった旨のことを言われたことがあったそうだ。二人は編集者で、一人は小説家らしい。小説家からは「最近女性作家たちが妙に仲良くしているでしょう。西加奈子のせいだ」などと言い散らされ、あまつさえセクシュアリティ差別的な言葉まで差し向けられたそうだ。そいつに関する箇所は思いきり眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げて読んだが、それ以上に西さんに対する村田さんの思いや、そして作家同士が仲良くすることについて物語っている言葉の透明度が、あらゆる苛立ちを取り去って響いた。いや……やっぱり、何年前の発言かは知らないけれど、その小説家はそれから今日まで毎日足の小指を角にぶつけていてくれ! それでも足りない。
村田さんと会ったことがある、というより、村田さんの姿を見たことがある、というほうが適切だと思うけど、数年前のある文学賞パーティの二次会に呼んでもらって、そこで村田さんが締めの挨拶をされたときの言葉がここ数年私の現在を照らしているのだ。
さぁさぁ、と編集者にたぶん唐突にスピーチを振られて、少し慌てながら、村田さんは他の作家さんの言葉をお借りしていると踏まえ、とこういったことをおっしゃった。みんなでコロナ禍も乗り越えて集まって、わいわい食べて話して、同じ時を分かち合っている。でもみんな、このあとそれぞれの家路について、また原稿に向かって、みんなひとりぼっちになってゆく。そういう孤独こそ尊く、そしてそうやって小説は書かれている。
もちろん一言一句当時村田さんがおっしゃった通りではなく、私の思い出エフェクトがかかった記憶なのだが、やさしい声色でも毅然と孤独を肯定されている姿に、私はたしかに勇気づけられた。言葉そのものはもちろん、あの瞬間に満ちた空気ごと時々思い出しては握りしめている。
ぜんぜんそんなことないのに、作家(音楽ジャンルでも)同士が仲良くしていると「馴れ合ってつるんでいる」ように受け取るひともいるし、作家自身がそれを内面化して、もっと切磋琢磨という名のギスギスした雰囲気を持たないといけない、と無理やりに火をつけるようなタイプの人間とも今まで出会ったことがある。友達といると仕事に対する気合いが足りなくて、ひとりぼっちでいると虚しい人間とみなされる。
さらに女性同士となると「女同士は嫉妬し合う」というジェンダーバイアスで煽られることもあって、仲良くすること自体に自分たちの等身大をゆうに超える障壁を感じることがあった。この壁を村田沙耶香や西加奈子ですら作られてきたことにも憤然としてくるけれど、一方で誰かと仲良くすることもひとりでいることも、こんなにやさしく肯定してくれるひとがいる。だから私は安心して、もっと他者と関わってゆこう、そして無理に関わらないでもいい、誰かとともに笑ったり、怒ったり、謝ったりしようと改めて思った。
もう夜の六時近いのに、まだ空は薄曇りでいつまでも昼下がりみたいな空気が漂っていた。おいしいアイスコーヒーを啜りながらこの景色を眺める。相変わらずこの街は隆起する地形に家がフジツボみたいにびっしり張り付いている。子供のころは、世界にはこんなにたくさん家があってこんなにたくさん生活があるのに、心を開ける友達がいない、家族のことも信用していないたったひとりの自分は、とてもみじめな存在だと思っていた。みじめなんだから誰かと仲良くすることに後ろめたさまで感じるようになって、自分を大事にしないほうが楽だった。そんな自暴自棄なくせに自意識過剰でもあった自分を思い出すから、白楽に帰るのをなんとなく避けていたのだ。
でも今は、記憶の染み込んだ土地で、新たな本に出会い、新たな世界の扉を開くことができる。もう少し若い頃に「はるや」と出会えたらよかったのに、とも思うけれど、たぶん今だから悠然としていられるんだろうな。
夜に宅配の再配達の依頼を出していたことを思い出し、そそくさ荷物をまとめる。次来るときはもうちょっとお腹を空かせて、物々交換棚に置いて行ける本を持ってゆかなくちゃ。
アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。著書に第169回芥川賞候補作『##NAME##』(河出書房新社)、『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)等。5/24発売の17人の作家によるリレーエッセイ集『私の身体を生きる』(文藝春秋社)に参加。