いにしえの人々が目指した三山を今に体験する。 太神々が鎮座するよみがえりの聖地【和歌山・熊野三山】。自然に宿る神々を訪ねて歩く旅へ。
今回訪れたのは、熊野三山。そこは古来、木や岩、滝などに神々を見いだす自然信仰の盛んな地でもあった。熊野に宿る自然信仰を目の当たりにし、悠久の時間へと思いを馳せよう。12月28日(月)発売 Hanako1192号「幸せをよぶ、神社とお寺。」よりお届け。
神武東征の際、熊野から奈良へ向かう神武天皇を八咫烏(やたがらす)が案内したと記紀に記されているように、脈々と続く歴史を持つ熊野。そこは古来、木や岩、滝などに神々を見いだす自然信仰の盛んな地でもあった。深い山間にあって人々をたやすく近づけない秘境は、奈良時代から平安時代にかけて仏教や密教、修験道と結ばれて聖地となり、神仏習合の考えが広まってゆく。熊野速玉大社の熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)は薬師如来と千手観音、熊野那智大社の熊野夫須美大神は千手観音、熊野本宮大社の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)は阿弥陀如来の化身という、熊野権現の信仰だ。その力をもって熊野速玉大社は過去世の救済を、熊野那智大社は現世の利益を、熊野本宮大社は来世の加護を授けるとされた。
長く続く参詣道を歩き、厳しい難行苦行の果てにたどり着き、神々の救いを受ける熊野の地。それは再び生きる力を与える、よみがえりと再生の場所なのだ。平安時代の半ばには、それぞれ異なる成り立ちと主祭神を持つ三社が、熊野権現と呼ばれる12の祭神をお互いに祀ることで一体化。熊野三山と称されるようになり、ますます信仰を集めるようになる。やがて白河上皇を皮切りに、後白河上皇、後鳥羽上皇ら上皇が詣でる熊野御幸が盛んになり、のちに庶民にまで広まってゆく。人々が列をなして熊野へと向かう様子は「蟻の熊野詣」と称されたことからも、その熱狂ぶりは推して知るべし。
千数百年の時を超えた現在も、巡礼の地として人々の信仰は揺るぎないものがある。三山にはそれぞれ、参拝に際して欠かせない別宮や摂社もあるため、せっかく熊野を訪れたのなら足を延ばしたいもの。熊野本宮大社では明治22年の大洪水まで鎮座していた旧社殿地・大斎原(おおゆのはら)へ。現在の社殿から歩いて10分ほどの地へ足を延ばすのはもちろん、熊野古道のひとつ中辺路(なかへち)の山間から見る姿もまた神々しい。熊野速玉大社の摂社・神倉神社は熊野の神々が最初に降臨したとされる地。這うように登る険しい石段の先に見る、御神体のゴトビキ岩は圧巻だ。そして熊野那智大社の別宮・飛瀧(ひろう)神社の御神体は那智滝。熊野に宿る自然信仰を目の当たりにし、悠久の時間へと思いを馳せたい。
〈神倉神社(かみくらじんじゃ)〉
神倉神社は熊野速玉大社の摂社のひとつ。熊野の神々が最初に降臨した地と伝わる。源頼朝が寄進したといわれる538段の石段を上った、神倉山の中腹にあるゴトビキ岩が御神体で、記紀には神武天皇が登った天ノ磐盾の山と記されている。
■和歌山県新宮市神倉1-13-8
■0735-22-2533(熊野速玉大社)
■天ノ磐盾拝観自由
〈熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)〉
朱塗りの社殿が鮮やか。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の主祭神を含めた18柱が祀られている。景行天皇58年に社殿を創設したことから、現在の神倉神社がある元宮に対して新宮と呼ばれるように。御神木の梛(なぎ)の木も。
■和歌山県新宮市新宮1
■0735-22-2533
■日の出~日没(授与所8:00~17:00)
〈熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)〉
かつては熊野坐(くまのにます)神社と称され、すべての熊野古道はここへと繋がる。崇神年間に現在の大斎原(おおゆのはら)に創建されたと伝わり、明治22年に現在地へ移転。主祭神の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)を含めた12柱が祀られている。檜皮葺(ひわだぶき)の社殿が一列に並ぶ様子は厳かだ。
■和歌山県田辺市本宮町本宮
■0735-42-0009
■8:00~17:00
〈熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)〉
那智滝を御神体とする自然信仰に由来し、仁徳天皇5年に社殿が創設されたと伝わる。祀られているのは主祭神の熊野夫須美大神を含めた13柱。境内手前の大門坂を起点にすれば、苔むす石畳の熊野古道を歩いて向かうことも可能だ。隣接して西国三十三所の一番札所、那智山青岸渡寺(せいがんとじ)も。
■和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山
■0735-55-0321
■17:00~16:30
(Hanako1192号掲載/photo:Norio Kidera text:Mako Yamato)