大切なものを見失わないために。「多様性」という言葉の重みを丁寧に考えたい|松田青子エッセイ

大切なものを見失わないために。「多様性」という言葉の重みを丁寧に考えたい|松田青子エッセイ
自分の目で、世界を見たい Vol.5
大切なものを見失わないために。「多様性」という言葉の重みを丁寧に考えたい|松田青子エッセイ
LEARN 2025.03.01
この社会で“当たり前”とされていること。制度や価値観、ブーム、表現にいたるまで、それって本当は“当たり前”なんかじゃなくって、時代や場所、文化…少しでも何かが違えば、きっと存在しなかった。情報が溢れ、強い言葉が支持を集めやすい今だからこそ、少し立ち止まって、それって本当? 誰かの小さな声を押し潰してない? 自分の心の声を無視していない? そんな視点で、世界を見ていきたい。本連載では、作家・翻訳家の松田青子さんが、日常の出来事を掬い上げ、丁寧に分解していきます。第5回は今や当たり前のように使われている「多様性」という言葉をとりまく現状について考えます。

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松田青子
松田青子
作家・翻訳家

まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。

てんでバラバラ、だから居心地がいい

五歳になる子どもの人(私は、子どもの人、のほうがしっくりくるので、そう呼んでいる)は、去年から近所のスイミングスクールに通っている。

チェーン展開ではない地元に密着しているスクールで、見学していると、時間ごとに、子どもたちが、わーっと現れ、わーっと一時間泳いで、わーっとまた帰っていくダイナミズムに毎回圧倒される。

送り迎えのバスもあるので、バスが到着すると、わーっとした感じが、さらに強まる。先生たちも子どもたちも泳ぐことにストイックで、その場にいるだけで私まで、うおー、やるぞー、と謎に気持ちが高まる

習いはじめたばかりの子どもの人のクラスは、おじいちゃん先生が受け持っている。テストに合格して進級していくシステムなので、まだ小さな子たちに、泳ぐ上ではじめに必要なことをしっかりと教えて、テストに合格させてあげようという気持ちが伝わってくるような的確さと熱心さには、信頼しかない

このおじいちゃん先生に教えてもらいたいからと、子どもの人と同じ保育園に通っている男の子のお母さんは、通う曜日を変更したくらいだ。

以前、夏の間、母の家に滞在している時に短期クラスで通ったことのあるスイミングスクールは大手のチェーンで、先生たちはみな若く、みな体が引き締まっていた

けれど、今通っているスクールは、おじいちゃん先生だけでなく、先生はてんでバラバラだ。若い先生もいれば、中年の先生もいる。おばあちゃんもおじいちゃんもいる。

ぽちゃっとした体型の若い男性の先生もいれば、子どもの人の現在の先生であるおじいちゃんはセットアップの上からでも見事な逆三角形の体をしていることがわかる。人種の違う先生もいる。

ある時は、泳力認定の賞状を手にしたダウン症の女の子の肩を、おばちゃん先生たちが本当に誇らしそうに抱いていた。

チェーンではない、昔からある地元の教室だからこその自治性と、地に足がついた雰囲気が私は好きだ。先生たちがもう若くないから、太っているからとはじかれたりしない場所であることが好きだ。

「多様性」という言葉の本質を見失わないために

さて、最近、チェーン展開のお店で似たようなポスターを目にする。

従業員の多様性を尊重します

というような言葉とともに、勤務時の服装規定をゆるくした、とのお知らせだ。

はじめて目にしたのは、私が時々行くファミリーレストランで、ちょうどトイレから出たところにこのポスターが貼ってあった。そして、その言葉とともに、髪の色やピアスなどを自由にしたことがわかるイラストがついていた。

私はこの傾向にうれしくなった。髪の色やピアスの数などは、働いている人の態度や能力にまったく関係ない
実際、服装規定がゆるくなったことで、早速、金髪や明るい髪の色をした若い人たちが店内で働いていて、当たり前だが、接客態度はよかった。

(服装はその人の職務態度や能力と関係ない、と私がしみじみと感じた場所は、一度ここで検査を受けてきてくださいと指定されたある病院だ。

その総合病院は、耳にピアスをつけまくっている医師、休みの日はコスプレーヤーをしていることが髪型や印象から伝わってくる看護師など、かつて病院で遭遇したことのないほどの個性に満ちていた。

階段を降りていた事務員さんが転びそうになって、患者たちに聞かれるのを気にせずに「あっぶね!」と声を出し、私に見られているのに気づいて、「ふふっ」と笑いながら視界から消えていき、なんかこの病院好き、と感じ入った)

ただ、ファミリーレストランでそのポスターを見た時、

多様性を尊重します

とまで言うことなのかなと少し不思議になった。

個性を尊重します

のほうがしっくりくるというか、

「接客態度にまったく関係ないので、服装規定をゆるくしました。もっとはやくそうすればよかったです」

と、それだけのことではないのか。

なんというか、「多様性」のフレーズを、来るかもしれないクレームへの盾のように使っているように感じた

今は多様性の時代だから

とは、いつからかよく使われるフレーズになった。雑な使い方だなと思う時もある。

冒頭のスイミングスクールのように、社会の「普通」が画一的ではなく、いろんな人がいる、というのは、すごくいいことだし、すべてにおいて、そうあってほしい

でも、「多様性」は、性別や年齢、価値観などの他にも、人種や国籍、性自認や性的指向や障がいの有無など、これまで「マイノリティ」とされ、今の社会の「普通」の中では、生きづらさを抱えている人たちを可視化し、社会の非対称性を指摘する言葉である。

私が服装規定の緩和の報告に、

「多様性を尊重します」

と使われているのに違和感を覚えるのは、確かに服装の自由も「多様性」ではあるのだけど、その言葉がカジュアルに、広い意味で頻繁に使われるようになったことで、本当に「多様性」という言葉で語られなくてはならない存在や問題が見えにくくなるのではないか、と気にかかるからかもしれない。

この言葉が使われすぎることで、「多様性」アレルギーになっている人もちらほら目にする

最近の流れで「多様性」が使われていても、他の言葉や表現で置き換えてみたら、案外その言葉を使わなくてもいいことや、本質的にはそうじゃないことも中にはあるんじゃないだろうか。間違いではないとしても、一つ一つ、丁寧に見つめていきたい。

3月8日は国際女性デーだ。こういった「多様性」をめぐる現状は、ジェンダーや女性を取り巻く環境に影響がないわけがない。

だったら全部尊重されなければならないのでは、というのは、よくある「多様性」の誤解であり、社会の不均衡や差別、ミソジニーに対して女性が声を上げると、 「逆差別」「男性差別」ではないか、と反論する人たちもいるが、「多様性」はすべてをフラットにするための言葉ではない

今さら差別なんてないでしょ、と思っている人もいるかもしれないけれど、この言葉が広まったからといって、これまでの不均衡や差別が消えたわけではない

社会の問題が解決しないまま、時にふわふわと一人歩きしている「多様性」を疑う視点を持っていこう

状況を一つ一つ見極めていくには、信じること、疑うこと、どちらも同じくらいに必要だ。

text_Aoko Matsuda illustration_Hashimotochan Edit_Hinako Hase

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