未来のために今を犠牲にしてないか。受け身でも主体的でもない新たな生き方

未来のために今を犠牲にしてないか。受け身でも主体的でもない新たな生き方
日本、どうなる!? 〜自己責任論編〜Vol.2 後編
未来のために今を犠牲にしてないか。受け身でも主体的でもない新たな生き方
LEARN 2024.12.01
人生100年時代と言われるのに、先行きの見えない日本社会が心配すぎる!? 物価は上がり、賃金は上がらず、おまけに、政治やマスメディアへの信頼は失墜し、SNSの炎上、フェイクニュース、社会の分断も深まる一方…。こんな世の中、どう生き抜けばいいの〜! 政治学者の中島岳志さんをメインスピーカーに迎え、「自己責任」をテーマに3人のゲストと対談していただきました。第二回目は英文学者の小川公代さんと考える「ケア的な在り方が持つ可能性」。後編では人間中心主義に疑問を呈し、自己の在り方を見直します。

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中島岳志さん
中島岳志さん
政治学者

東京科学大学(旧・東京工業大学)リベラルアーツ研究教育院教授。京都大学大学院博士課程修了。専門は南アジア地域研究、日本思想史。著書に、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日文庫)、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『思いがけず利他』(ミシマ社)など。

小川公代さん
小川公代さん
英文学者

上智大学外国語学部英語学科教授。英国グラスゴー大学・文学部(英文学)博士課程修了。医学史、精神医学史、ジェンダー、ポスト・コロニアリズムといった観点から文学作品を分析。著書に、『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)、『世界文学をケアで読み解く』(朝日新聞出版)など。

撮影 : 嶋田礼奈

▼前編はこちら

主体性だけが正解じゃない。“追随”が開く人生の可能性

中島岳志さん(以下、中島)前編では、「自立した能動的な自己」がよしとされる現代社会において、否定的な文脈に置かれがちだった「ケア」や「利他」といった、能動と受動の間にある「与格的な在り方」の可能性に触れるとともに、それを拾い上げてきたのが文学だという話をしました。

その中で、路上を脱出した女性ホームレスが他者を心配する気持ちから「つい、戻ってしまう」という場面に、与格的なケアの本質を見たと小川さんはおっしゃっていました。実は私も以前、ホームレス支援に携わっていた時、同じく「再路上問題」を経験しました。

この“〇〇してしまう”という与格的な世界って、政治学や経済学がものすごく弱いんですよね。なぜなら、これらの学問は「人間は自分の利益を最大化するために合理的な選択を行うべきである」というモデルを前提に成り立っているから。

でも実際には人間ってそんな風には生きていないし、私が政治学者として探求したいのは、そこからこぼれ落ちる、だめだとわかっているのにしてしまう与格的な人間の在り方なんです。その背景には、“追随”こそが私の人生を開き、与格的なものの力の重要性を実感してきたからだと思います。

例えば、ヒンディー語を勉強するようになったきっかけも、浪人生時代に付き合っていた人の志望校が大阪外国語大学(※1)のインドネシア語専攻志望で、「一緒の専攻は嫌だ」と言われたから、「ネシアを取ってインドにするか」というところから実は始まっていて(笑)、回り回って、気づいたら研究者になっていたんです。

主体的に自分の夢や目標を追い求めてきたのではなく、やってきたバスに乗っていたら何かが生まれてきた。そんな追随ばかりの人生ですね。

小川公代さん(以下、小川):中島さんの著書『中村屋のボース: インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)では、まさに与格的な、追随によって道を開いていく人々が描かれていますよね。

当時、イギリスの植民地支配下に置かれていたインドの独立運動家ボースが、日本に亡命してきて、偶然の連鎖で〈新宿 中村屋〉の創始者である相馬愛蔵、黒光夫妻と出会う。そして彼らがボースをかくまったことが始まりで、後に〈新宿 中村屋〉はカレーで大成し、今や新宿の一等地にビルを構えている。

ただ、これは偶然だけではなく、黒光さんのケアの力が大きかったと感じています。

日本を頼って、はるばるインドを脱出してきて、日本に一身を託した亡命者を政府は見殺しにするが、我々はこれを保護する。

こう彼女は言い切るんですね。やってきたものに対してなんとかするしかないという姿勢は、ある意味、従属的ですが、それにより人生を切り開いていく。黒光さんは本当に与格の人だなと思います。

目的のために今が犠牲になる人生から、今とつながる生き方へ

中島:そうですね。一方、今の社会は、「そこにこういう人がいるから、つい手を伸ばして助けてしまう」といった他者に応答することが許されない状況になっているのかもしれません。

哲学者の國分功一郎さんは、著書『目的への抵抗』(新潮新書)で、私たちには常に目的があり、今が手段になっていると指摘しています。

たとえば、子どものころは「“いい”大学に入るために、遊びよりも勉強を頑張れ」と言われ、大学に入ったら「就職のためのキャリア教育を受けろ」と言われ、会社に入ったら「ステップアップのために資格を取れ」「老後の貯蓄のためにNISAをやれ」と言われ、ようやく老後になったと思ったら今度は「終活をやれ」と言われ、一生を終えていく。

つまり、子どもの時から「未来への投資をやれ」と言われ続け、投資の対象となった“今”が常に犠牲になっていく。そんな目的に絡め取られた人生になっているわけです。

同様に、イギリスの社会人類学者、ティム・インゴルドは、昨今の人生は「輸送になっている」と批判し、目的なく歩く徒歩旅行(=散歩)を提案しています。目的なく歩き、道端にある花に目を留め、そこでの出会いにきちんと応答することこそ“responsibility”であり、そうして初めて私たちは世界と交わることができると。

小川理性や合理性よりも感受性を重んじるロマン主義(※2)文学を私が研究しているのは、目の前にある「“今”と接続する」というテーマがロマン主義文学の根底にあるからだと思います。

自然を愛したロマン派詩人のウィリアム・ワーズワースは、同じくロマン派詩人であるサミュエル・テイラー・コールリッジと1日何十キロと歩いていたそうです。その途中で偶発的な出会いがあったりもする

また、ワーズワースを語るうえで無視できないのが、妹のドロシーの存在。彼女と歩いていた時の出会いがきっかけで生まれた詩『決意と独立』では、ヒルを取る老人が登場します。

当時はヒルによって血を抜くという医療行為が行われていて、貧しい人たちは沼に入って何匹もヒルを取って売っていた。ワーズワース兄妹は偶然出会ったヒルを取る老人の人生の物語に耳を傾けます。

「10人の子どもがいたけれど、海軍として海に出ている一人を除き、妻と子どもに先立たれて孤独なうえ、ヒルが激減して取れなくなり、物乞いをしている」と老人が語った言葉を二人はそれぞれ日記に書き留めていく。

文学には、私たちが取るに足らないと思ってしまうような、名もなき人の物語に耳を傾け、それを記録に残すという営為があり、この詩を通して、私たちもこの老人に出会わせてもらっている。今とどうつながるかを文学を通して経験させてもらっているんだと思います。

きっとワーズワースたちは、老後の貯金とかにはあまり興味がなくて、毎日どれだけ歩いてどんな人と出会うか。どういう感性でその出会いを受け止め、表現するか。そういうことに専念していたと思います。

人間中心主義を見直した先にある惑星的思考

中島:ワーズワースは「言葉が自分にやってくる」という感覚を持っていた人ですよね。

インドで調査をしていた際、私がヒンディー語を話すと現地の人が「ヒンディー語があなたにやってきて留まっているのか?」と与格を使って聞くんですね。学んで習得する言語では主格を使うのに、なぜか母語には与格を使う。

おそらくインド人にとって母語は能力や意思を超えた過去の人々、そして神からやってくるものだという感覚があった。そしてこれはワーズワースの感性に近い気がします。

彼は人間も草花も死者も区別せず、万物に神が宿っていると考える汎神論(はんしんろん)的な人で、外からやってくる言葉を受け止める“器”として自分自身を捉えていたと思います。

小川:はい。人間を地球上の主体ではなく、さまざまな他者と共存している惑星上のいち生物と考える。ワーズワースの詩が持つ、こうした惑星的思考(※3)が今の私たちには不足していて、特に政治においてそれは強く言えることだと感じています。

中島:私たちはまだ生まれていない未来の他者に対してどう責任を果たせるのかということを考えたとき、今を生きている人間だけの都合でさまざまなものごとを改変してはいけないと感じます。ならば、そもそも生きている人間だけに主権が与えられていることもどうなんだろうという疑問が湧いてきます。

では、死者はどうやって社会に参加するのか。私は憲法が死者の民主主義への参加だと思っています。民主主義は生者の過半数によっていろいろなことを決定していくシステムですが、いくら国会議員が「言論の自由を犯してもいい」という法律を通そうとしても憲法がガードする。

憲法は過去の人々が自分たちの失敗から、こういうことはしてはいけないと未来に投げかけ、制約をするもの。死者は憲法でもって民主主義に票を投じ、憲法を重視するというのは死者という主権を私たちの社会に招き入れることだと私は考えています。

また最近、ニュージーランドではワンガムイ川という川に法人格(※4)が与えられて、マウイの人々が、「自分たちの祖先である川は、人格を持っていて、勝手に乱開発をしてはいけない」と訴えて認められたんですね。

ボリビアの憲法にも森に権利があるといったことが書かれていて、人間以外に主権を認めるのが国家レベルで成立しているところがあり、そういった姿勢を持たないと人新世(※5)は超えられないでしょう。私たちも外苑前の木にも、多摩川にも一票はあるという視点をもって、投票をしないといけないと思います。

小川:その感覚は本当に文学に通じますね。前述のワーズワースは木の痛みに寄り添う詩を残していたり、最近ではアメリカの小説家リチャード・パワーズが長く生きる木の視点から人間の生活を考える『オーバーストーリー』(新潮社)という実験的な小説を書いています。

読んでいると、最初は少し違和感があるのですがだんだん自分が木になった感覚になり、「木も痛みを感じるかもしれない」「人間だけが主権を持っているのは果たして当たり前なのか」など普段考えないようなことを考えさせられるんですね。

やっぱり、文学って内面世界に入り込めないまでも、他者の存在を知り、想像力を鍛え上げていく力があると思うし、そんな文学が社会においてできることってまだまだあると感じています。

中島:死者や植物、生類を区別しない世界観を描くことができる文学には、リアリティ以上のリアリティを映す力があって、そこから思考を辿ると自ずと人間中心主義へ懐疑的になります

このマインドセットの切り替えが必要で、「ケア」や「利他」は単に人間同士だけではなく、地球全体への“responsibility(応答)”も含む。すると社会貢献って、「主体的にしないといけないこと」ではなく、惑星的思考で世界を捉え直し、今とつながることで生まれる「つい〜しちゃう」ものだと思います。

小川:人間は数値化すると「1」と思うかもしれませんが、与格的な視点で捉え直すと、60兆個の細胞があり、それらが対話し、時にはウイルスが入ってきたりと、自分でコントロールできる一つの体ではない。多くの細胞や微生物が高度に絡み合った集合的な有機体であり、他律的で脆弱な存在なんです。

世界的に著名なエコロジストであるティモシー・モートンが、原子力発電といった人間の等身大を遥かに超えた近代的なものを「hyperobjects」、等身大の有機的なものを「hyposubjects」と呼びました。

私たちは等身大の有機的なものをもっと意識して生きていかなくてはいけないし、人間同士だけではなく、木や土、虫、菌、あらゆる有機体と呼応し合っているというビジョンを持たなくてはいけないと思います。「hyperobjects」ばかり生み出し続ければいつか地球は誰も住めない場所になってしまいます。

中島:生命科学研究者の中村桂子さんは、ゲノムレベルでいうと多様な種が自分たちの中にいるのは当たり前のことだとおっしゃっていて、私が抱く人間中心主義への疑念も当たり前のように受け入れてくださったんですね。

そういった命の在り方に対する見方を変えて、人間だけに閉じられたケアを開いていくのが重要なのかなと思います。

穴を穿ち、外に開かれた自己を取り戻す

小川:そうですね。政治哲学者チャールズ・テイラーは、「緩衝材に覆われた自己」と「多孔的な自己」という対照的な自己像を提示していて、近現代社会では、外界の影響を受けない“強い”自己である前者に支配されていると指摘しています。

しかし、ケアを強みとして捉え直したキャロル・ギリガン(前編参照)の思想のルーツとなっているイギリスの小説家ヴァージニア・ウルフをはじめ、女性作家たちは「外界に影響を受けやすい他者に開かれた“多孔的な自己”の大切さ」を提示しているんです。

人間の捉え方を変え、惑星的な視点を持つには、「1つの個として存在し、自分のことは自分でする」というある種、近代的な自己の在り方を突き崩し、穴をいっぱい開けるために想像力を使わなくてはいけない

自分は正義で相手は間違っているという態度はやはり壁を作ってしまいます。自己責任論が蔓延し、分断が深まっている今だからこそ、「多孔質な自己」の復権が求められているのではないでしょうか

※1:大阪外国語大学|2007年10月に大阪大学と統合。
※2:ロマン主義文学|18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで広がった精神運動で、それまでの理性偏重、合理主義などに対し、自由な表現を尊重し、知性よりも情緒を、理性よりも想像力を、形式よりも内容を重んじている主観的な作風が特徴。
※3:惑星的思考|インド出身の比較文学者ガヤトリ・C・スピヴァクによって提唱された考え方。地球を一つの惑星として見て、これまで看過されてきた他者の存在に着目し、自然環境や社会環境を惑星の捉え直す。
※4:法人格|法律が組織や団体に人間と同様の人格を認めること。
※5:人新世|ノーベル化学賞を受賞したドイツ人化学者パウル・クルッツェンとアメリカ人生態学者ユージン・ストーマーが提唱した「人類の時代」という意味の新しい時代区分。人類の経済活動や核実験によって、自然のシステムを変えてしまった時代。

illustration_Natsuki Kurachi text&Edit_Hinako Hase

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