きれいになりたいって、わりといつも思ってる/寿木けい 第15回 ひんぴんさんになりたくて。
本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す、という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。
ペンネームで文章を書くようになって七年になる。会社員時代に本を出して(広まりつつあった副業に、少しだけ早く乗り出した)、退職してからも、筆名と本名を使い分けて仕事をしてきた。
本名のほうでは、ある企業で三年前に化粧品ブランドを立ち上げた。商品開発からコピーライティング、SNSの中の人まで、チームの一員として働いている。
先月、私たちのブランドが都内で期間限定のポップアップを開くことになり、私も店頭に立った。
売る側に立つと、景色が一変する。
無数にある化粧品の中から、存在に気がついて足を止めてもらえることが、まず、ありがたい。さらに、商品を手に取って肌にのせてもらえるだけでも奇跡のような確率なのに、それを気に入って買ってくださる人がいる。うれしいなんてもんじゃない。感動する。
だからこそ、納得して買ってもらいたいと思う。私は販売論を語ることはできないけれど、代わりに、商品を作った動機や背景、成分のこと、リアルな使い心地など、自分自身について語るのと同じ熱心さで話すことができる。今日より明日、数ミリでもきれいになるための共犯者のような気持ちで、出会った人の背中を押してあげたいと思っている。
共犯という強い言葉を使ったのは、きれいになることへの後ろめたさを感じている人がとても多く、そしてその気持ちの根強いことを感じるからだ。
これまでに何度か店頭に立ってきたが、そのたびに受け取ってきた言葉がある。
それは、お客さんが開口一番に発する「私なんか」というイントロだ。
このイントロにはいくつかのアレンジがある。もうおばさんだから/いまさら何を塗っても無駄だけど/メイク好きじゃないんです......など。
おいしいものを食べに行くのに、「私なんか」とつぶやきながらレストランに入る人はいない。それなのに、こと、きれいになることに対しては、少なくない人が謙遜や自虐とともに身を低くしてお店にやってくる。
大事なのはこのイントロそのものではなく、言いたい気持ちの奥に、どんな願いがあるのかということだと思う。
先日のポップアップで、印象に残った女性がいる。
メイクが好きじゃないんですとおっしゃるのに、まぶたには赤いアイシャドウをグラデーションで入れて、すごくお洒落。こういう矛盾、気になる。
「シミだらけだから、恥ずかしくて」
マスクを外しながら謙遜されるが、いやいや、肌が柔らかくて、あらためて見ても赤がよく似合う。ちらっと赤い口紅をチェックしていることに気付いていたから、思い切っておすすめしてみた。
鏡の中の姿に小さく感動しているお客さんを見ると、私までうれしくなる。
話しているうちに、じつは赤リップ塗ってみたかったんです、ふふ、という風におっしゃって、初めから新しい赤を買う意志を持って入店してきた人のような足どりで、お店をあとにされた。
美容室でも似たようなことがあると知ったのは、いきつけのサロンで美容師さんと話していたときのことだ。
「きれいになりたいって、わりといつも思ってるけど」
話の流れで、私が何の気なしにこう言ったとき、
「そう言い切れる人、少ないですよ」
彼女もきっと「私なんか」のイントロをずっと聞いてきたのだろう。私の言葉に驚きつつ、そういう気持ちって大事ですよねと言ってハサミを動かした。
私にとっての「きれいになりたい」の中身は、たとえば、もう似合わなくなっ髪型に固執するようになったら、美容師さんにやんわり諭してもらいたいとか、白髪は抜くべきか否かプロの見解を聞くとか、そういうこと。きれいという言葉がもつ、美しさの側面よりも、潔さや清潔さに惹かれるのかもしれない。
そもそも、首から上に関して、言いにくいことを指摘してくれるのは美容師さんしかいない。美容室は、洗われてぺたんこになった髪を人前に晒し、プロの知識や技術を受け取るところだ。私は諦めていないし、足掻く。こう書くとこれもまた、自虐になるのかもしれないけれど。
つい最近も、首が少しでも長く見えるボブのラインってどこ?と質問したばかりだ。もちろんプロはこうした願いを叶える引き出しを豊富に持っている。